2章 優しさと不安
どうせならば、抱き締められるくらいの大きさがあって、毛がもふもふのものが良い。色も部屋の調度に合うものにしたい。
そう思って棚に並ぶクマのぬいぐるみを夢中で選んでいると、店員らしい母親のような年代の女が声をかけてきた。
「熱心にお選びいただいて、ありがとうございます」
「あ……すみません。お恥ずかしいです」
「いいえ。テディベア専門店なんて珍しいですよね」
店員はそう言って、近くの棚に目を向ける。
ミシェルは内心で首を傾げた。
「テディベア、ですか?」
「ええ。お客様はご存知ありませんでしたか。ぬいぐるみの中でも、クマのぬいぐるみはテディベアと呼ぶのですよ。何でも、偉い人のニックネームから取っているそうです」
「そうでしたの……」
勉強は充分にしてきた自信だけはあるミシェルだが、こんな小さなことでも知らないことがあるのだ。帰ったら、その由来についても調べてみよう。
視線を彷徨わせた先で、ミシェルは大きめな一体のテディベアに目を止めた。
ベージュ色のくるくるとした毛のテディベアだ。大きさはミシェルの腕の長さよりも少し短いくらい。他のテディベアよりも少し丸みの強い耳が特徴的だ。
「──この子、素敵ね」
しかしミシェルが惹かれたのは、その瞳の色だ。本物のアメジストのような綺麗な紫色が、ラファエルの瞳に似ているような気がしたのだ。
ラファエルの瞳の方が、少しだけ赤が強いような気がするけれど、それでも似た色だというだけでミシェルの心が浮き立った。
「どうぞ、お手にとってみてください」
店員に差し出されて、ミシェルはテディベアに触れる。
くるくるの毛は思ったよりもずっと柔らかく、そっと抱き締めると優しく受け止めてくれる。紫色の瞳は透明で、とても綺麗だ。正面に持ってよく見ると、なんとなく笑っているような表情にも見えてくる。
「ミシェル様、この子にしましょう」
エマが、テディベアと見つめ合っているミシェルに向かって言った。
「エマ?」
「気に入っていらっしゃるなら、買って帰りましょう」
「でも、まだお値段も見ていないわ」
確かに気に入ったが、見るからに作りの良いものだ。きっと高価なものに違いない。
ミシェルが眉を下げると、エマがとんと胸を叩いた。顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「大丈夫です。旦那様からいただいた今日の予算で、絶対に買えますから!」
ミシェルはエマが懐から取り出した小袋を見て目を丸くした。
どうやら誰かに盗られたりしないように、しっかり内側にしまい込んでいたらしい。袋の中にはそれなりの数の硬貨が入っていることが分かる。
店員は動揺していないが、ミシェルはエマが平然と持ち歩いていることに驚きが隠せない。
だって、きっとその小袋の中身は銅貨ではないだろう。
「ラファエル様……どうしてそんなに」
小さく嘆息したミシェルを励ますように、エマが明るい声を出す。
「欲しいなって思ったときに買えるように、って仰ってましたよ。流石旦那様、お優しいですねー」
「何だか、少し怖いわ」
「そうでしょうか?」
エマがミシェルからテディベアを受け取って、店員と会話をしながら会計のカウンターへと向かう。ミシェルはそのやり取りを見ながら、なんとなく窓の外を見た。
こんなに優しくしてくれる、ラファエルの本心が分からない。
ミシェルのために食事の時間やお茶の時間を作ってくれて、侍女を三人もつけてくれて、馬の練習場所にも配慮してくれて、金も充分すぎるくらいにかけてくれる。ミシェルのことを愛してもいないのに、だ。
そんなにしてもらうようなことを、ミシェルは一つもしていない。
「どうして、そんなに優しくしてくださるの?」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
ラファエルから問うことを禁じられたその問いが、ずっとミシェルの心の中にいる。
優しくされることは、嬉しいことだ。
喜ぶべきことだ。
しかもラファエルはとても美しい男性で、公爵家当主という地位もある。王族とも懇意にしていて、没落する未来など考えられない。
妻として正しく尊重される毎日に、抱く不安などない筈だ。
「ミシェル様ー、リボンつけてくださるそうですけど、水色で良いですかー?」
「ええ、お願い」
楽しげなエマの声に、ミシェルも明るい声音で返す。
クマのぬいぐるみをテディベアと言うという、なんでもないことを覚えられることが、どれだけ幸せなことだろう。
幸せの塊のようなそのクマを自分の部屋に置いても良いのだという事実が、ミシェルの心を震わせた。
窓の外は、相変わらず日常の光景が広がっている。
楽しそうに買い物をして回る若い女や、急ぎ足で移動するどこかの店員らしき人。仲睦まじげに身を寄せ合って歩く恋人達。大きな声で笑っているのは、どこかの子供達だろう。
時折通る馬車も、人を避けるようにゆっくりと走っている。
そんな長閑さがミシェルには眩しくて仕方なかった。
作中のテディベアと元大統領は関係ありません。
あくまで「テディというニックネームの偉い人」として、温かい目でお読みいただけますと幸いです。




