1章 予想外の訪問者
翌朝、ミシェルはいつもと同じ時間に起き、いつも通りの仕事をこなしていた。身支度をして、前庭と玄関を掃除し、朝食の支度を手伝う。
料理人は、今では料理長のデジレしか雇われていない。デジレの補佐をするのもミシェルの仕事だ。
デジレは、もしいつかこの家から解放されたときにミシェルが一人で生きていけるようにと、最初はこっそりと、ミシェルが厨房の手伝いを任されるようになってからは隠れることなく、その技術と知識を授けてくれた。
お陰で今ではミシェルもひと通りの料理はできるようになった。
特にミシェルが好きなのはパン作りだ。全体重をかけてパン生地をぐいぐいと押す感覚と、これだけは投げつけても良いという小さな背徳感は癖になる。
「どうせ今日、お嬢様方は遅いんだろう。ミシェル、それ終わるなら先に食べておけ」
「そうします」
夜会の次の日、イザベルとリアーヌは大抵朝寝坊だ。特に昨日は帰宅後もしばらく騒いでいたから、きっとなかなか起きてこないだろう。特に誰も諌めないのであれば、ミシェルにはありがたいことだ。
ミシェルは丸めたパン生地をボウルに戻し、そっと濡れ布巾を掛けた。
ホットサンドとスープを用意して、厨房の裏口の扉を開ける。執事に見つかると煩く言われるのは分かっているので、使用人用のコーナーで堂々と食事をするわけにもいかないのだ。
最低限の花しかない庭に、ぴゅうと風が吹き抜けていく。
冬と呼ばれる季節になったばかりとはいえ、やはり朝は冷える。ミシェルはスープを両手で抱えるように持ち、ゆっくりと飲んだ。
「──次はスパイスを増やした方が良いかしら」
そろそろ身体を温めるスパイスを使っても良い季節だろう。後でデジレに伝え忘れないように、メモ帳すら持っていないミシェルは頭の隅にしっかりと記憶しておく。
今となってみれば、六歳までオードラン伯爵家にいられたのは僥倖だったのかもしれない。もっと幼い内に売られてしまっていたら、きっと文字も計算も学べなかっただろう。
急いで食事を終えて厨房に戻ると、上階から足音が聞こえていた。
「……早いですね?」
イザベルとリアーヌが起きたのなら、思っていたよりもずっと早い。不思議に思ったミシェルがぽつりと言うと、デジレが首を左右に振った。
「さっき旦那様の声が聞こえたぞ」
「それも珍しいですね。最近はあまりここに帰ってこないと思っていましたけど」
「だな。何かあったのかもしれないけど、どうせ俺らには関係ないだろ。朝食はできてるし、言われたら出すだけだ」
デジレはそう言うと、くるくると鍋をかき回した。さっきミシェルが食べた具沢山のスープが焦げ付かないようにしているのだ。バルテレミー伯爵が帰ってきてしまったから、火を止められないのだろう。パン生地が膨らむまではまだ時間がかかるから、そろそろミシェルが一度代わった方が良いかもしれない。
「デジレさん、鍋──」
「ミシェル、ここにいるんだろう!? 今すぐ応接室に来い!」
ばたばたと足音を鳴らして厨房に顔を出した執事が、慌てた様子でそう言った。
ミシェルは大きな声に驚き首を竦める。
「返事は!?」
「はいっ!」
ミシェルの返事を聞いた執事は、そのまままたばたばたとどこかに行ってしまった。
デジレが眉間に皺を寄せ、執事がいた場所を睨む。
「あいつは、まーだミシェルにあんな態度なのか。今度俺が──」
「デジレさん、大丈夫ですから! それより、呼ばれてるみたいなので行ってきますね」
執事にとって、ミシェルは賃金が発生しない使用人──つまり奴隷と同じなのだ。デジレがどんなにミシェルの待遇改善を訴えても意味はない。それでデジレがこの屋敷に居辛くなってしまったら、ミシェルはその方が困ってしまう。
厨房で使うエプロンを外し、使用人用のワンピース姿で廊下を走る。バルテレミー伯爵を待たせてしまって、叱られたら大変だ。
ミシェルは応接室の前で乱れた髪とワンピースの裾を軽く整えた。
「──ミシェルです。参りました」
「入りなさい」
中に入ると、応接用のテーブルに向かい合って男性が座っていた。一人はバルテレミー伯爵で、もう一人は二十歳前後のまだ若い貴族だ。貴族は黒い髪に、緑の瞳をしていた。その色合いに、ミシェルの心がざわりと音を立てる。
バルテレミー伯爵は珍しく上機嫌で、ミシェルにもっと近付くようにと手招きした。
「こちらに来て、顔を見せなさい」
「失礼いたします」
ミシェルは一礼して、テーブルの側まで移動する。
近付く度、呼吸がし辛くなっていく。
バルテレミー伯爵の前に座って、優雅に紅茶を飲む若い貴族。
黒い髪は艶やかで、印象的な緑色の目は垂れ目気味だ。白過ぎる肌は健康的とは言えないが、姿勢が良いので貧相な感じはない。
口角を上げると、笑窪ができた。
「──ああ、会いたかったよ。我が妹!」
「ミシェル、オードラン伯爵……君の兄上だ。君を引き取りたいと言っておいでだよ」
ミシェルはどくんと高く跳ねた心臓を押さえるように、胸に両手を当てた。
「お、兄様……?」
ミシェルの呼びかけに、ミシェルの兄、アランは深く頷いた。
「そうだよ、ミシェル」
ミシェルは既に忘れかけていたオードラン伯爵家での日々を思い出した。




