1章 クストー男爵
そして約束の日。フェリエ公爵家の応接室で、ミシェルとエマはクストー男爵と向かい合って座っていた。普段は当主であるラファエルが使うことが多いその部屋は広く、特に高級な調度が揃っている。
今日の予定が無かったラファエルだが、王子からの急な呼び出しで王城へと行くことになってしまった。そのため、ラファエルが帰宅するまでの間、クストー男爵に挨拶をする役目をミシェルが担うことになった。当然ミシェルとしても、エマの父親には直接礼を言いたい気持ちがあったので、二つ返事で了承した。
そしてミシェルは落ち着かない気持ちで、クストー男爵を出迎えたのだが。
クストー男爵はぼろぼろと零れ落ちていく涙もそのままに、テーブルの上でエマの手を思いきり両手で握り締めている。
「ああ、エマ。本当に良かった……!」
「ご、ごめんなさい、パパ。心配かけちゃって」
一方連絡を忘れていた当のエマはというと、若干自分の父親に引いていた。その顔には、いくらなんでも自分の主人の前でこんな振る舞いをするな恥ずかしい、と書いてある。
「生きてて良かったぁ!」
「う、うん。ごめん」
「お前が誘拐なんてしないだろうとは思っていたけれど、なんでまた公爵家の奥様付き侍女なんてなってるんだ」
「……それは、まあ、色々と」
エマがすうっと目を逸らして口籠もる。
ミシェルは代わりに、エマがミシェルを庇ってオードラン伯爵家からの逃走を手伝おうとしたのだと説明した。自分が塔から飛び降りようとしたとか、エマが森で一夜を過ごしたとか、そういった事情までは話していない。
それは事前にエマとラファエルと話し合って決めたことだった。
あまりに踏み込んだ事情を知ってしまうと、万一のときにクストー男爵にも危険が及ぶ可能性がある。オードラン伯爵家の問題はまだ全てが片付いたとは言い難く、関係のない人物を巻き込まないようにするための判断だった。
しかし、全てを話せないからこそミシェルはより苦しくなる。
「私の事情にエマを巻き込んでしまって、本当に申し訳ございません」
「パパ。ミシェル様のせいじゃないからね」
ミシェルが謝罪をすると、エマが即座にミシェルを庇った。
クストー男爵はようやくエマから手を離し、ポケットからハンカチを取り出す。真っ赤になった目を拭いながら、エマの言葉に苦笑した。
「ああ、分かってる。分かってるよ。お前は、昔から頑固だからな」
「パパの馬鹿」
「でも、連絡が無かったのは怒ってるからな。死んだと思ったぞ」
「う。はい……次から気を付ける」
「とにかく、無事で何よりだよ」
ミシェルはエマとクストー男爵の応対に感動していた。ミシェルは、正しく仲の良い親子というものを良く知らない。バルテレミー伯爵は娘達に甘かったが、あの関係が歪んでいたことはミシェルにも分かる。
こうして父親に甘え、失敗を涙ながらに許されるというのは、なんと尊いものだろう。
心がぎゅうっと握られたように痛い。
ミシェルの方が泣いてしまいそうだった。
「……ミシェル様、どうか娘をよろしくお願いいたします」
クストー男爵が深々と頭を下げる。
ミシェルはそれを受けて、真摯に頷いた。
「こちらこそ、エマを預けてくださってありがとうございます」
エマがいなければ、ミシェルは今ここにいない。
あのままオードラン伯爵家にいれば、きっとアランと共に逮捕され、知らぬ罪で裁かれることになっていただろう。
ミシェルの返答にまた目を潤ませ始めてしまったクストー男爵は、背後の扉が開く音に勢い良く振り返った。
そこには、出仕用の衣装に身を包んだラファエルがいる。ラファエルは元々見目麗しいが、こうして華やかな衣装に身を包んでいると、教会の天井画から抜け出てきた神か天使かという眩さだ。
「──お待たせして申し訳ない」
クストー男爵が慌てて立ち上がって、きっちりと九十度の礼を披露した。
「い、いいえいいえ。私のような者のために公爵様のお時間を頂戴いたしまして、誠に恐悦至極にございまして本当にどうお礼をするべきか判断に困っております!」
クストー男爵家は子沢山なことが取り柄の田舎貴族だ。小さくとも長閑な領地を維持し、まったりと暮らしている。つまり、権力者──それも王族と血縁である若き公爵となど、対面で話す機会などないのだ。
緊張し、硬直しているクストー男爵に、エマが呆れたように溜息を吐く。
「……パパ、何言ってるの?」
「エマ、フェリエ公爵様の前だぞ」
クストー男爵がエマの態度に冷や汗をかき始めた。しかし頑なに顔を上げない。
エマが立ち上がって、ミシェルの隣をラファエルに譲り、自分はクストー男爵の隣に移動する。
「いや、知ってるけど。パパが顔あげないと、話始まらないじゃん」
ぱん、と軽く叩かれた背中に、クストー男爵が弾かれたように顔を上げた。
「ああ、お前はなんで公爵様の前でそんな平然としてられるんだ!」
「何でって。毎日見てるもん」
クストー男爵がそれはそうだが、と呟いている。
そうこうしているうちにラファエルはミシェルの隣に移動してきていた。それから、相変わらずの美しい微笑みを浮かべて、クストー男爵に挨拶をする。
「こちらの不手際で連絡が遅れてしまったのですから、直接ご挨拶させていただくのは当然のことです。むしろ、御足労いただきありがとうございます。どうぞ、お座りください」
そして、背後の椅子を手で指し示した。
クストー男爵は隣にエマがいることで、少しは安心できただろうか。そう思っていたミシェルだが、どうやらその効果はあまりなかったようだ。
「これはパパが先に座っても良いのか?」
「パパ……」
耳打ちをされたエマが、可哀想なものを見る目をクストー男爵に向ける。
静かな応接室では、ばっちりミシェルとラファエルにも聞こえてしまっていた。ミシェルは聞こえない振りをしようとしたが、ラファエルはそうはしなかった。
にこりと笑みを深めて、口を開く。
「どうぞ、パパ様がお先に」
「旦那様、パパ様って……ははっ」
エマが耐えられないといったように吹き出して笑う。
クストー男爵が、目を見開いてラファエルの顔を凝視した。
「ラファエル様、男爵様が困っていらっしゃいますよ……」
最後に溜息を吐くことになったのは、ミシェルだった。




