1章 穏やかな朝食
「おはよう、ミシェル」
ラファエルは、あとは出かけるだけという姿だ。すっかり身支度が終わっている。ソファーに座っていたミシェルは、さり気なくドレスの裾を整えて微笑みを浮かべた。
ラファエルがミシェルの部屋に来るのは、結婚式の日の夜以来だ。
「おはようございます、ラファエル様。いかがなさいました?」
気を抜くと動きがぎこちなくなってしまう身体に意識して力を入れて、ミシェルはぐっと背筋を伸ばす。立ち上がっての礼は難しそうだったため、座ったままで首を傾げた。
完璧な所作ができたと思ったのだが、ラファエルは表情を変えないまま、ミシェルの側まで歩み寄ってきた。
「大した用事はないんだけどね。もし良ければ、今日は部屋で一緒に朝食にしようかと思って」
その言葉に、ミシェルは頬を僅かに染めた。
普段のラファエルはそんな提案をしてこない。きっとミシェルがこのような状態であると知って言っているのだ。
自業自得ではあるが、好意を抱いている相手に自分の駄目な場面を直視されるというのは恥ずかしい。
ミシェルは側に置いていた扇で顔を隠して、上目遣いにラファエルを窺った。
「──エマ達から聞きましたか?」
「何が? 私はただ、ミシェルの部屋での食事も悪くないと思っただけだよ」
ラファエルが涼しい顔をして言う。
誰かから聞いたのか、ラファエルにも容易に想像できる事態だったのかは分からないが、いずれにせよ、ラファエルは何も知らない体を貫いてくれるようだ。
「ありがとうございます……」
俯きがちに礼を言うミシェルに、ラファエルが苦笑する。目の前に大きな手が差し出されて、ミシェルは扇を閉じて首を傾げた。
「ラファエル様?」
「ほら、テーブルに朝食を運んでもらおう」
ミシェルはラファエルの手が自身が立ち上がるために差し出されたのだと気付いて、そっと手を重ねた。その手がミシェルの手を掴んで引いてくれる。立ち上がるときには反対側の手で背中を支えられ、まるで愛されているかのような錯覚に陥りそうになった。
窓際に置かれたティーテーブルに移動して、椅子に向かい合って座る。
用意された朝食はホットサンドとスープだった。食堂で食べるときよりも軽い内容に、ミシェルはほっと息を吐く。
一口食べて懐かしい気持ちになった。
思い出したのは、バルテレミー伯爵家での最後の朝のことだ。世話になったデジレに最後の挨拶ができなかったことだけが心残りだった。
ラファエルが食事を進めながら口を開く。
「今日と明日はゆっくり休んで。クストー男爵が来るのは明後日だろう?」
ミシェルは目の前のラファエルに意識を戻す。
クストー男爵は、エマの父親だ。
アランがクストー男爵家にエマを処分したと伝えてから、助けてもらった後もすっかり実家への連絡を忘れていたエマは、その事実に気が付いて慌ててダミアンに確認した。ダミアンは当然エマが連絡したと思っていたらしく、むしろ男爵家からの挨拶を待っていた。
擦れ違いに気付いたミシェルとラファエルは、エマが実家に向けて書いた手紙を追ってすぐに連名の手紙を出すことになった。謝罪と感謝、そして是非挨拶をさせてほしいと書いたその手紙を見たクストー男爵は、エマとミシェル以上に大慌てでフェリエ公爵邸に挨拶に伺いたいと返事を書いてきた。
そしてラファエルに予定がない明後日に約束をし、クストー男爵がフェリエ公爵家に来ることになったのだ。
「そうですわね。ラファエル様も、お時間を作ってくださってありがとうございます」
ミシェルは食事の手を止める。
ラファエルがなんでもないと首を振った。
「ううん。それより、ミシェルの部屋に入れてくれてありがとう」
「どうしてですか?」
ミシェルは首を傾げる。
ラファエルの邸なのだから、ミシェルの部屋に入れるのは当然のことだと思っていたが、どうやらラファエルにとってはそうではなかったらしい。
「ここはミシェルの部屋だから、嫌なら私を拒否しても良いんだよ」
「拒否だなんて、そんな」
ミシェルがラファエルを拒否するだなんて、考えてもいなかった。しかしそれを口にするのは違う気がして、ミシェルは曖昧に微笑んで誤魔化す。
ラファエルもそれ以上追求する気はないようで、スープを掬って口に運んだ。ミシェルも食事を再開する。
食べやすく用意された食事が終わるのはあっという間だった。
ラファエルが口を軽く押さえるようにして拭い、自然な所作でミシェルの部屋を見渡す。
「……うーん、部屋は好きにしていいって言ってあったと思うけど」
ミシェルの部屋には、この邸に引っ越してきてから増えたものも減ったものもない。もうすぐふた月が経つというのに、何一つ物を動かしていなかった。
それは新たな家具を買ってもらうことへの抵抗だけではない。
ただ、女主人としての仕事をしていても、この立派な邸に自分が完全に受け入れられていないような違和感だ。
「ですが、私のために……勿体ないです」
使用人は皆ミシェルを女主人として慕ってくれる。
ラファエルもミシェルにいつも優しく、尊重してくれる。
それなのに、何故こんな気持ちになるのだろう。
「そんなことはないよ。そうだね。約束していたし、今度邸に商人を呼ぼう」
「ですが」
「遠慮はなしだよ」
ラファエルがそう言って立ち上がる。
もう出かけるのだと気付いて立ち上がろうとしたミシェルを、ラファエルが止めた。
「そのままでいいから。いってきます、ミシェル」
「いってらっしゃいませ」
ラファエルの手が、ミシェルの頭に優しく触れる。
部屋の扉が閉まるまで、ミシェルはラファエルの背中から目が離せなかった。




