1章 暖かい場所
その日の夜、早速ミシェルはラファエルに礼を言った。
「ああ、事情を聞いたんだね。感謝なんてしなくて良いんだよ」
ラファエルが当然だというように笑って、食後の紅茶を飲む。
ミシェルがラファエルと共に過ごしているのは一日に二回。朝食と夕食のときである。夕食の後は、ラファエルに時間があるときはそのままサロンで会話をする。
今日はラファエルもミシェルを気にしてくれていたのか、ゆっくりと会話をすることができていた。
「ですが、嬉しかったのです」
ラファエルがミシェルの安全に注意を払ってくれていることも、ミシェルが気楽に乗馬を習えるようにしてくれたことも。きっとどちらも、当然のこととして甘受していいものではない。
「そう?」
「はい」
首を傾げたラファエルに、ミシェルは前のめりに頷く。
ミシェルはこれまで、自分の意思を受け入れられた経験が乏しい。ラファエルが当然のようにミシェルの言葉を受け入れて、よりやりやすいように環境を整えてくれることが、かけがえのないことのように感じていた。
ラファエルが曖昧に微笑んで、ミシェルの指に触れる。一瞬で離れてしまった手の感触が、ミシェルの心を騒めかせた。
「それじゃ、もう少し馬に慣れたら、私と遠乗りにでも行こうか。ミシェルの馬も選ぼう。そうしたら、きっともっと楽しいよ」
「はい。ありがとうございます」
小さな約束は、ミシェルをラファエルに繋ぎ止めてくれる。もっと練習して、ラファエルと遠くに行ってみたい。ミシェルはその日が今から待ち遠しかった。
翌朝起きると、ミシェルは思うように動かない身体に困惑した。頑張って伸ばした手でどうにか呼び鈴を鳴らしたものの、やはり身体が重い。
痛みに堪えて上半身を起こすと、丁度エマが部屋に入ってきたところだった。
「ミシェル様、おはようございます。……いかがなさいましたか?」
「その、ね。身体が痛くて」
ミシェルが苦笑しながら言うと、エマが慌てて駆け寄ってきた。エマは天蓋を掻き分けて、まだ寝台の上にいるミシェルの顔色を窺う。
「どこかお悪いのですか? 顔色は悪くありませんが、すぐに医師を──」
「待って、エマ。違うわ」
今にも部屋を出ていこうとするエマを呼び止める。
「筋肉痛、だと思うの。前にも同じようなことはあったから」
ミシェルが言うと、エマが引き返してくる。天蓋を柱に括りつけながら、ミシェルの様子を観察しているようだ。
「……前にもあったのですか?」
「ええ。夜会の後とか……」
オードラン伯爵家から逃げ出した後にもあった。バルテレミー伯爵家にいたときには経験したことが無かったから、きっとオードラン伯爵家での運動不足が原因だ。
天蓋を全て開けたエマが、ミシェルが起きやすいようにと手を貸してくれる。その顔には分かりやすく安堵の表情が浮かんでいた。
「それは、仰る通り筋肉痛ですね。ミシェル様、これまでは身体を動かされることがあまりありませんでしたから、乗馬が負担になったのでしょう。ララとノエルに頼んで、風呂とマッサージの準備をします。朝食はどうなさいます?」
朝食も、頼めば部屋に運んでもらえるだろう。食堂は一階、ここはニ階だ。動くのが辛ければ、そうすれば良いとエマは言ってくれている。
しかしミシェルは悩んでいた。
ラファエルに会えるのは、一日二回。朝食を逃せば夜まで顔を見ることができないだろう。部屋にいては、見送りをすることもできない。
それは少し寂しい。
「──……行くわ」
ミシェルは覚悟を決めて言う。
エマが呆れたように溜息を吐いた。きっとエマには、ミシェルが考えていることなどお見通しだったに違いない。
「……分かりました。では、お支度を始めますね」
ミシェルにタオルを渡して、エマは部屋を出ていった。顔を洗う湯を取りに行ったのだ。
「うう……情けないわ」
腹も背中も、太股の内側も痛い。腕を持ち上げると二の腕が痛むし、変なところに力が入っていたのか、肩と首も痛い。
オードラン伯爵家で自室に篭っていたとはいえ、もしものためにもっと運動をしておくべきだった。今更後悔しても遅い上、当時はそう思えるほどの余裕も無かったのだから仕方のないないことだが。
そう考えているうちに、エマが戻ってきた。
「ミシェル様、もう浴室の支度ができているそうです。このままお風呂に行ってしまいましょう」
「早いのね?」
ミシェルは驚いた。
起きたのはついさっきだ。それも、普段よりも少し早い。エマ達が優秀だといえ、いくら何でも早すぎる。正直、入浴は朝食の後になるかもしれないと思っていたのだ。
しかしエマは、ミシェルの身体を支えながら頷いた。
「ノエルが予想して、準備してくれていたようですよ」
流石長年フェリエ公爵家に仕えていると言うべきか、それともミシェルが分かりやすかったのか。きっと、その両方だろう。
「それは、少し恥ずかしいわ……」
「ララもいるそうなので、そのままマッサージまでしてもらいましょうね」
「ええ。ありがとう」
ミシェルはエマの手を借りて、浴室まで移動した。
風呂に入るといくらか身体が楽になり、更に身体中を解されてもっと痛みがなくなった。ミシェルが礼を言うと、ノエルは当然だと笑って言う。
着替えを終えたところで、ラファエルがミシェルの部屋にやって来た。




