1章 ミシェルの挑戦
フェリエ公爵邸の温室で白薔薇を見て以来、ミシェルはラファエルとの距離を測りかねていた。
白薔薇で溢れたコンサバトリーは、とても美しい。ラファエルに白薔薇はよく似合うと思った。しかし同時に思い出したのは、あの日、ミシェルの代わりに塔から落ちていった白だ。
気になっているのに、踏み込めない。いつか話すとラファエルが言ったことのなかに、これも含まれているのだろうか。
考えても仕方のないことを、ミシェルは一旦保留することにした。
代わりに始めたのは乗馬の練習だ。
貴族女性で乗馬をする者は、実は王都にはそう多くない。平民や領地住まいの貴族は別だが、高位貴族であればあるほど妻となる令嬢には淑やかさを求めがちだった。
そのためミシェルは最初ラファエルに話をするとき、やはり反対されるかと怖かった。しかしラファエルは、ミシェルが興味を持ったことを喜び、王都の外れにある馬場を使えるように取り計らってくれたのだ。
これまで馬を怖がっていたミシェルが乗馬を始めてみようと思ったのは、圧倒的な体力不足が理由だ。ラファエルと参加した夜会で、ミシェルはいかに自分が運動不足であったかを実感した。社交をするのにも、体力は必要なのだ。
そして何度か馬と触れ合う時間を持ち、ようやく今日、ミシェルは馬に乗って軽く歩かせてみたのだが。
「奥様、お上手です。初めてなんて信じられません!」
一緒に来て馬に乗っているララが、嬉しそうに言う。心なしか、ララの馬も喜んでいるように見える。
ミシェルはまだ不安定な馬上での体重移動に苦心しながら眉を下げた。
「ララ、それは褒めすぎだわ」
ミシェルが乗っている馬は、中でも特に大人しく賢い子らしい。それでもこれまであまり身体を動かすことがなかったミシェルには充分難しかった。
だから今こうしてミシェルが馬を歩かせることができているのは、馬が賢く、先生の教え方が良いからだろう。
「そんなことないです! お馬さんも楽しそうですもん」
「そうかしら……?」
ミシェルには、もっと早く走りたいと思われているような気がしてならない。それでもミシェルのペースに合わせてくれているあたり、やはりこの馬は良い子なのだ。
「っはは、ララは本当に馬が好きだなぁ。ミシェル様も、お上手ですよ」
「先生」
「ドニ叔父様」
この馬場は王家所有のものらしい。王女にも教鞭をとったというドニという教師は、良く日に焼けた快活な笑顔でミシェルの馬を引いてくれている。
ドニはララの叔父だ。ララがこんなにも馬を好きになったことも、きっとこの叔父が影響している。
「でも、そうね。自由に動けると、気持ちが良いものね」
ドニが馬を止める。
ミシェルは青い空を見上げた。あのままオードラン伯爵家にいては、きっと一生乗馬をすることなどなかったに違いない。馬に乗ることができるようになって、逃げられてしまっては困るからだ。
「そうですよ、奥様。もっと乗れるようになったら、もっと楽しくなりますよ!」
「ふふ。そうしたら、きっと素敵ね」
ラファエルも馬に乗れるらしい。ミシェルが乗馬に慣れたら、共に遠乗りもできるかもしれない。そうしたら、ララの言う通り、きっともっと楽しくなるだろう。
ミシェルはラファエルを想って頬を染めた。
ミシェルが恋心を自覚したからといって、日々の生活を変えることなどできなかった。ラファエルがミシェルのことをどう思っているかすら分からないのだ。それでも初めての恋心はこうして、日常のふとした瞬間に顔を覗かせる。
ドニが微笑ましい者を見るように目を細めた。
「奥様にこんなに想われるとは、ラファエル様も隅に置けませんね。過保護にもなるはずですよ」
「もう、先生。からかわないでくださいませ」
照れるミシェルを横目に、ララが馬から下りる。踏み台も無くぴょんと下りる姿はいかにも活発な少女だ。
「えー。ラファエル様、奥様には本当に過保護ですよ。別人かってくらいですから」
「ああ……それでこの馬場で、俺が教師なのか」
ララの言葉に、ドニが苦笑してミシェルに手を貸した。
ミシェルはその手を取って馬から下りる。安定した地面に、内心でほっと息を吐く。
「どういうことでしょう?」
「奥様はご存知ないかもしれませんが、この馬場は安全なんですよ。普通の貴族は使えませんから」
ドニ曰く、この馬場は王家所有というだけでなく、基本的に王家が許可を出した人しか使えないのだという。しかも当代の王子二人は馬に乗るのが好きで、馬を走らせたいと予約無しで気軽に馬場に行ってしまう。
そのため普通の貴族であれば、王子達が馬場を使いたいときに自分が予約していたせいで使えないという状況を避けたいと思うらしい。そんなくだらないことでうっかり王族の不興を買ってしまっては面倒だ。
「ですから、ここを予約して使うのは王族か、その友人といえる家の者くらいなんですよ。ですから、奥様にとってはとても安全です」
王子達がそのような行動をするのは、民間で営業している馬場が賑わうようにという意味もあると、ドニが付け加えた。
「そういうことですか。それは……ラファエル様に感謝をしなければいけませんね」
間違ってもバルテレミー伯爵家の者やオードラン伯爵家に縁のある家の者には会わないということだろう。それは同時に、ラファエルが相手にしなかった家の令嬢達とも会うことはないという意味でもある。
またミシェルの気付かぬところで、ラファエルはミシェルを守ってくれている。
ミシェルの心にふわりと温かな風が吹き抜ける。それはまるで春の訪れを告げるように、そっと、少しずつ、心の氷を融かしているのだ。




