エピローグ〜真っ白な薔薇の花〜
「まずは、この広い屋敷を全部見てみたいわ」
ミシェルが言うと、エマは笑顔で頷いた。
ラファエルに助けられ、このフェリエ公爵邸で暮らし始めてもうすぐひと月が経つ。しかしミシェルはまだこの屋敷を探索しきれていなかった。
女主人として、屋敷の内部をしっかり覚えておくことも大切だろう。
「良いですね! こんなに広過ぎると何があるのかも分かりませんし、まずは知らないと始まりません」
エマがそう言って、ミシェルの髪を緩く結んだ。
「この屋敷全部ですか。一日かかりますよー?」
ララが本気かというように目を丸くしながら、ミシェルがさっきまで着ていた服を片付けている。
「あら、良いじゃないですか。それでは、私はダミアンに許可を貰ってきますね」
ノエルはそう言って、部屋を出て行った。
ラファエルは仕事のために一日王城にいる。午前の勉強の時間が終わり、今日は来客の予定もないため、楽なワンピースドレスに着替えたところだ。
この後の予定は無い。先日の夜会で王妃が言っていた、好きなことは出会わなければ見つからない、を実践してみようと思ったのだ。
ラファエルと共に楽しめる趣味などができたら、きっと楽しいだろう。
ミシェルの身支度が終わったところで、ノエルが戻ってきた。
「ダミアンに許可を取って参りました。特に危険なところもないので、鍵が開いている部屋は好きに入って良いそうですよ。なんでも、奥様が言い出したらそうさせてあげてほしいと、旦那様が言っていたようです」
「ラファエル様が?」
ミシェルはノエルの言葉に目を丸くした。
ラファエルはミシェルが屋敷を見て回りたいと言い出すことを想像していたのだろうか。
フェリエ公爵夫人という立場上、気軽に街に出るのは憚られる。護衛をつけないわけにはいかず、大勢に予定外の仕事を強いるのは申し訳ない。外に出るなら、事前に予定に組み込んでおかなければならないだろう。
その点屋敷の中なら安全だ。
流石五大貴族の一つなだけあり、塀の周りには何人もの警備兵がいる。出入りも身分証で完全に管理されており、不審者が紛れ込むことはできない。
この敷地内であれば、ミシェルがどこにいても安全といえるだろう。
「ラファエル様には、全部お見通しのようね」
ミシェルは苦笑して、エマとノエルを連れて部屋を出た。最後まで渋っていたララには、ノエルが部屋の片付けと留守番を任せていた。
まだ不慣れなミシェルとエマをノエルが案内する形で屋敷の探索は始まった。
三階の客間から始まり、音楽室、倉庫、使用人頭とメイド長の部屋。二階の客間、ミシェルの部屋、ラファエルの部屋、執務室、図書室。
鍵がかかっている部屋も、その前を通って場所を確かめていく。
一階に降りて、厨房、準備室、食堂、応接室。玄関ホールを通り過ぎて、サロン、大広間。地下には使用人の食堂とリネン室、使用人頭とメイド長の執務室がある。
「本当に、たくさんの部屋があるのね」
ミシェルは感嘆の溜息を吐いた。
こんなに大きな屋敷なのに、部屋のどこにも埃はない。使われていない客間さえ綺麗に整えられていることから、使用人達の日々の仕事ぶりがわかる。
あちこちに飾られている美術品も、とても丁寧に磨かれているようだった。
「タウンハウスではありますが、公爵家ですもんね……」
ミシェルの横で半分意識を飛ばしているエマが口を開く。エマも、ミシェルの側と最低限必要な場所にしか行くことはなかったため、こんなに隅々まで見るのは初めてのようだ。
「こんなお屋敷の奥様付き侍女になったなんて、父が知ったら卒倒するかもしれません……あ!」
「どうしたの、エマ?」
突然大きな声を出したエマを、ミシェルとノエルがどうしたのかと注目する。
すると、エマは顔を青くして両手で頭を抱えてしまった。
「父に、連絡するの忘れてました……」
ミシェルはぽかんと開いた口を慌てて手で隠した。
エマの父親の元にされた報告は、おそらくアランがした、ミシェルの誘拐未遂犯として始末するというものが最後だ。
つまりエマの家族は、エマが今こうして無事でいることを知らない。
「そんな! 待って、そうよね。ええと……エマ、まずは手紙を書きましょう。それから私からも一度ご挨拶を──」
「まあまあ。もしかしたら、旦那様かダミアンが連絡されているかもしれませんから。後で聞いてみましょう」
ノエルがエマの肩を叩いて落ち着かせようとしている。ミシェルもゆっくりと呼吸をして、しっかりせねばと自分に言い聞かせた。
「そ、そうですよね」
エマはそう言ったものの、やはり上の空なようだ。
ミシェルは微笑みの表情を作って、エマの背中を押す。
「エマ。あと少しだけだから、良ければこのまま先にダミアンのところに確認しに行ってくれる?」
「ミシェル様……よろしいのですか?」
「ええ、私も気になるもの。後で教えてちょうだい」
「分かりました。ありがとうございます」
エマはすぐに早足でダミアンを探しに向かった。
残されたノエルとミシェルは顔を見合わせて眉を下げる。
まだ不安はあるが、ミシェルが今すぐにできることはないだろう。いずれにせよミシェルが動くのは、ラファエルが帰宅してからになる。
「取り乱してごめんなさい。次に行きましょうか」
ミシェルは気分を切り替えて言った。続きを別の日にするとなると、ノエルやダミアンにも迷惑がかかってしまうかもしれない。
ノエルがほっと息を吐いて笑顔になった。
「ええ。あとは庭と温室だけですから。折角ですし、温室でお茶でもいたしましょうか」
温室とは、正面玄関からも見えるコンサバトリーだろう。
「あら、素敵ね」
「亡くなられた先代の奥様も、良く温室を使われておりました。しばらくこの屋敷には女主人が不在でしたので、ミシェル様がいらして華やかになっていくのは、本当に嬉しいことです」
ノエルはそう言って、先に庭園から案内をしてくれた。
仕事中の庭師に挨拶をして、庭園を回っていく。
庭園は中央に噴水があり、季節の花が植えられていた。この辺りはミシェルも休憩のためによく散策している。噴水の側にある白いベンチに腰掛けると、水音が心地良いのだ。
いつもは入らない奥の方へ行くと、裏口と使用人用の別棟があった。さらにその影になるところには庭師が使う用具入れがある。
一度室内に戻って、廊下の端の扉を開ける。
短い通路があって、その先に花の装飾が彫られた可愛らしい扉があった。
「この先が温室でございます」
ノエルが扉を開けると、甘く華やかな香りが鼻を擽った。
日の光をいっぱいに取り込んだ明るさに、ミシェルは咄嗟に目を瞑る。
少しして明るさに慣れたミシェルは、ゆっくりと目を開けた。
「まあ! なんて素敵なの……」
コンサバトリーの中は、真っ白な薔薇の花で埋め尽くされていた。
他の花は一つもない。花壇も、棚の上の鉢も、すべてが純白の薔薇の花だ。
「奥様は、少しこちらでお待ちください。お茶の用意をして参ります」
「ありがとう。お願いするわ」
ノエルがコンサバトリーを出ていって、ミシェルはそっと薔薇に近付いた。
全面がガラス張りになっているコンサバトリーは、冬が近付いているにも拘らずとても暖かい。
とはいえ、この季節にこれだけの薔薇を維持するのは大変なことだ。世話をしている人がどれだけ手をかけているのか、想像するだけでも感心する。
ガラスの向こうには庭園の噴水が見えた。
水は流れているが、別世界のようにその音は聞こえない。
「本当に、素敵な薔薇」
ミシェルは花を傷付けないように、指先でそっとその花弁に触れた。
ひやりとした感触に、ほうと小さく息を吐く。
この世のものとは思えないほど、美しい光景だった。
白、白、白。
全ての白が生きていて、どこか暖かい。
まるでラファエルのようで──
「……白い、薔薇?」
ミシェルははっと目を瞠った。
ミシェルは、この薔薇を見たことがある。
ラファエルと初めて会ったあの日、あの塔の上で。
ミシェルの代わりに落ちていった花の白は、忘れようとして忘れられるものではない。
「ラファエル様──」
ラファエルは、どうしてあの日、あの場所でミシェルを見つけたのか。
どうして、優しくしてくれるのか。
恋をしようと言ったラファエルの瞳の奥の感情を、ミシェルは正しく理解できていないのかもしれない。
『──私が幸せにしたいのは、ミシェルだから』
思い出すのは、ラファエルのどこか寂しげな瞳だ。
覚悟と、優しさと、恐れと、希望と。
あのときはっきりとしなかったそれが、今は少し寂しかった。
これにて第1部が完結となります。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
【以下第2部予告】
あの日、何故ラファエルはミシェルを見つけたのか?
ミシェルがラファエルに抱いた恋心の行方は?
そして、あの双子に断罪のときが迫る──
第2部は2月中旬より連載予定です!
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