8章 初めての恋
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王城からの帰りの馬車の中、ミシェルとラファエルは特に会話をしなかった。
本当はジリー公爵に頼まれた言伝をしなければならないのに、ミシェルは胸がいっぱいで、うっかり口を開いたら泣いてしまいそうだった。
ラファエルがミシェルを庇ってくれた。
イザベルとリアーヌから、守ってくれた。
これまでもラファエルはミシェルに優しく紳士的であったが、小さな怪我への気遣いに感謝して戻った先で知らぬ間に守られていて、ミシェルはどうしていいか分からなくなってしまった。
あれから、ずっと心臓が煩い。
耳元で鳴り続ける音がラファエルに聞こえていないことを祈るばかりだ。
顔も熱くて、馬車の明かりがランプだけで良かったと心から思う。
フェリエ公爵邸は王城のすぐ側にある。黙っていてもあっという間につく距離だ。
止まった馬車から先に降りたラファエルが、ミシェルにエスコートの手を差し出してくる。
「ミシェル、お疲れさま」
「ありがとうございます」
その手に自分の手を乗せて、手袋越しに感じた体温にどきりとした。
起きて待っていてくれたエマに手早く寝支度を整えてもらったミシェルは、明かりの消えた寝室で、扉の前でうろうろしていた。
夜着に大判のストールを羽織っただけの無防備な姿だ。
この扉の向こうは、ラファエルの寝室である。
就寝の挨拶をして部屋に戻ったものの、ジリー公爵からの言伝をまだラファエルに伝えていない。内容が内容なので、今日の内に話した方が良いだろう。
馬車で話せなかったミシェルができるだけ早く伝えようとした結果が、現状である。
ラファエルは初夜以来、一度もミシェルの寝室を訪れていない。
ミシェルは思いきって、ラファエルの寝室の部屋の扉を軽く叩いた。
「──ミシェル?」
扉の向こうから、驚いたような声が聞こえる。
夜だからか、外で聞くよりも控えめな声だ。名前を呼ぶその声音が妙に艶めいて聞こえて、ミシェルは折角引いた頬の熱がまた戻ってきてしまった。
「ラファエル様、もうお休みになるのに申し訳ございません。ジリー公爵様から言伝があるのですが、少しよろしいですか?」
「ああ、そういうことか。……どうぞ、入っておいで」
ミシェルは思いきって扉を開けた。
ラファエルは奥のソファーに座って何かの本を読んでいたようで、ミシェルを見て本を閉じた。
ラファエルの寝室には、三人は座れそうな大きなソファーと、テーブルと、小さな本棚と寝台しかなかった。その全てが落ち着いた色で統一されていて、ミシェルの部屋よりも飾り気がないくらいだ。
長く住んでいる屋敷の自室というにはあまりに殺風景だ。
「どうぞ。……と言っても、何もない部屋だけど」
「いいえ、お邪魔します」
扉を抜けて、寝台の前を通って、ソファーへ腰掛ける。手を伸ばさなければ身体が触れないであろうぎりぎりの距離だ。
これが今のミシェルの精一杯でもあった。
ラファエルがミシェルの前にグラスを置いて、水差しの水を注ぐ。
「気にして来てくれたんだね、ありがとう」
「馬車の中でお話しできれば良かったのですが」
「いや、構わないよ」
ミシェルはジリー公爵から聞いた話と、自分がジリー公爵に伝えたことを、思い出せる範囲で正確にラファエルに伝えた。
ラファエルは途中から難しい顔をして聞いていたが、ミシェルが最後まで話し終えると淡く微笑んだ。
「ありがとう。今夜の内に聞けて良かったよ」
「お役に立ちましたか?」
ミシェルが聞くと、ラファエルが頷く。
それから、ミシェルのグラスをちらりと見た。話しながら喉を潤していたため、既にグラスは空だ。ラファエルは水を足そうとしない。
もう部屋に戻れと言う意味だろう。
「うん。……こんな時間までごめんね。明日の朝は遅くて大丈夫だから、ゆっくり休んで」
「はい」
ミシェルは立ち上がって、自分の寝室に繋がる扉の前まで移動した。ノブに手をかけ、そっと回す。しかし扉を空ける前に大切なことに気付いて、ミシェルはくるりと振り返った。
ラファエルが、どうしたのかと問うようにミシェルを見ている。
ミシェルには、まだ言い忘れた礼があるのだ。
「今日は足の怪我を気遣ってくださってありがとうございます。それに、イザベル様とリアーヌ様のことも……庇ってくださって嬉しかったです」
イザベルとリアーヌに対して、はっきりとミシェルは悪くないと言ってもらえたのは初めてだった。
ミシェルが感謝を込めて口にした言葉に、ラファエルはそれでも足りないと首を振る。
「いや。むしろ、こんなことしかできなくてごめんね。……あの頃のミシェルに、私は何もしてあげられない」
あの頃のミシェルは、こう言ってくれる人がいつか現れると言っても絶対に信じないだろう。しかもそれは自分の夫となる人で、恋をしようと提案された相手でもある。
「そんなことありません。私は、ラファエル様に助けていただきました。本当に……ありがとうございます」
ミシェルはラファエルに恋をしたのかもしれない。
何度も助けられて、大切な侍女まで守られて、傷だらけの心も癒されて。
これで恋に落ちないなんて、無理なことだ。
「おやすみ、ミシェル」
「おやすみなさい、ラファエル様」
開いた扉の向こうにあるミシェルの部屋は、夜でも暖炉の火が絶やされていない。この温かさは、どこかラファエルに似ている。
寝台に横たわり瞳を閉じると、すぐに眠気が襲ってきた。フェリエ公爵夫人としての初めての社交で、肩に力が入っていた自覚はある。
その日見た夢の中で、ミシェルはラファエルの腕の中で眠っていた。




