1章 時が流れて変わったこと
「ちょっとミシェル、早く来て! 背中のリボンが気に入らないの!!」
イザベルがミシェルを呼ぶ。ミシェルはすぐに駆け寄って、リボンの形を整えた。
「こちらでいかがでしょうか」
鏡を持ってきて、鏡台と合わせ鏡にしてイザベルに見せる。イザベルは納得したのか、無言で頷く。
そのとき、窓の外から執事の声がした。
「ミシェル! 洗濯が途中なんだが、何さぼってるんだ!?」
「申し訳ございません。すぐに!」
ミシェルは慌てて部屋を出て、洗濯の続きに戻った。
あれから七年。ミシェルは十三歳、イザベルとリアーヌは十五歳になった。
この国──ネフティス王国では、貴族の子女は十四から十八歳の間にデビュタントとして社交界入りをするのが通例だ。社交界デビューを成人とし、以降独立や婚姻が可能になる。
昨年社交界デビューをしたイザベルとリアーヌは、少しでも好条件の相手と縁組みをしようと、日々社交に精を出している。
この七年間で最も大きく変わったのは、バルテレミー伯爵家の財政事情だろう。
ミシェルが買い取られたときには有り余るほど金があり豊かだった家は、三年前に領地で起こった害虫による飢饉の影響で収入が激減した。
元々金遣いが荒かったこともあり、家はあっという間に傾いていった。かつては二桁はいた使用人も、今は片手で足りるほどしかいない。
その中で賃金がかからないミシェルは、誰よりも多くの仕事を割り振られていた。
今バルテレミー伯爵家の頼みの綱は、イザベルとリアーヌである。
年頃の二人がどの家と縁組みをするかによって、今後のバルテレミー伯爵家の命運が分かれると言えるだろう。そのために二人のドレスや装飾品には、家の予算の多くがかけられていた。
二人はそれを知ってか知らでか、毎日のように着飾り、あちこちの茶会や夜会に顔を出している。
「……昔みたいに虐められることが減ったのは、不幸中の幸いかしら」
ミシェルはいつものように干していた洗濯物を取り込みながら、夕暮れ色に染まり始めた空を見上げた。邪魔になるからと肩口で切りそろえた髪がさらりと頬を撫でる。
イザベルもリアーヌも、かつてより家にいる時間が短くなった。使用人が少なく、ミシェルを閉じ込めたりしてしまったら人手が足りない。特に二人の着替えを手伝える女性がいないのは困ってしまう。
利己的な理由によって、ミシェルは食事を抜かれたり、たまに手を上げられるくらいのことしかされなくなっていた。
ミシェルが社交界デビューをする日は来ないだろう。そもそも伯爵令嬢であった過去などもうずっと昔のことで、今のミシェルに貴族の娘であったという矜持はほとんどない。
ただ、人前では泣かないように、貧しくとも背筋を伸ばして前を向きなさい──そんな亡き母親の教えだけが、ずっとミシェルの中に生きていた。
洗濯を終え、通いの使用人が帰った後、ミシェルは眠らずに二人の帰りを待っていた。女性使用人は皆通いの者なので、遅い帰宅のときに着替えの世話をするのもミシェルの仕事なのだ。
すっかり夜が更け、まもなく日が変わってしまうという頃、玄関からがたがたと騒がしい音がした。
階段に座ってうとうととしていたミシェルは、慌てて立ち上がって二人を出迎える。
「おかえりなさいませ、イザベル様、リアーヌ様」
いつもであればこのまますぐに二人を浴室に連れて行くのだが、この日は様子が違った。
「公爵様、絶対私を見つめてたのよ! そうに決まっているわ」
「違うわ。私よ!」
イザベルとリアーヌは、ミシェルなど目に入らないといった様子だ。
言い合いながら玄関を早足で抜けた二人は、まっすぐにサロンに向かっていく。
ミシェルは内心で溜息を吐いた。一日働いて疲れていて、やっと眠れると思っていたのだ。サロンに向かうということは、これから二人で会話をするのだろう。
ミシェルは一礼してすぐにハーブティーを淹れる準備をしに厨房に走った。ポットに快眠効果のある茶葉を入れ、湯が沸くのを待って注ぐ。
からからとカートを押して暗い廊下を戻ると、サロンから賑やかな声が聞こえてきた。
「だって私、話しかけられそうになったもの! 連れてきていた婚約者の女も放っていたし、きっと運命の恋に違いないわ」
「私だって、バルコニーで一緒になったのよ! すぐに出ていかれたけど、あれはきっと私と二人きりになるのが恥ずかしかったんだわ」
「避けられただけじゃないの?」
「イザベルだって、話してもいないじゃない!」
どうやら二人は、まだ『公爵様』とやらの話をしているようだ。二人が取り合うほど魅力的な男性なのだろうか。
「──失礼いたします」
ミシェルはできるだけ存在を押し殺しながら、最低限の動きと挨拶でティーカップをテーブルに並べた。
「あら。ね、ミシェルも気になるでしょう?」
部屋の端に控えようとしたミシェルに、リアーヌが声をかけてくる。ここで否定をしてはいけない。染みついたいつもの習性で、ミシェルはすぐに頷いた。
「ふふふ。そうよねぇ。だって、貴女みたいな子には縁のない世界の話だもの」
「そんなことを言っては可哀想よ、イザベル」
「リアーヌ。私はただ、ミシェルにもお話を聞かせてあげようと思っただけよ」
さっきまで言い合っていた二人が、今は仲間意識を持ってミシェルを嘲笑う。
ミシェルはこの程度では今更傷付かなくなってしまった心を隠して、目を伏せた。悲しそうにした方が、二人はミシェルに手を上げない。
イザベルとリアーヌは、話したくて仕方がないというように頬を染めて口を開く。
「今社交界で一番人気があるフェリエ公爵様よ。二十歳なのにもう当主でいらっしゃるの」
「艶のあるプラチナブロンドに、アメジストの瞳は夕暮れの空のよう。物腰穏やかで、王族の血も引いていらっしゃるの」
曰く、昨年先代フェリエ公爵とその夫人が亡くなり、嫡子であった当時十九歳のラファエルが公爵家を継いだ。喪が明け、今年から社交界に復帰した、ということだ。
プラチナブロンドにアメジスト色の瞳。すらりと引き締まった身体で背も高い。王子様よりも王子様らしいと、令嬢達が皆お近付きになりたがっているらしい。
イザベルとリアーヌも、例に漏れずと言うことだろう。
「……でも、ご婚約者様がいらっしゃるのですよね?」
ミシェルは首を傾げた。
「婚約者は侯爵家のご令嬢だけど、最初の一曲以外ずっと離れていて、全く甘い雰囲気なんてないんだから。きっと公爵様にとって、望まない結婚なんでしょうね」
「ああ、お慰めしてあげたーい!」
「やだリアーヌ! それは私の役目よ」
二人はきゃいきゃいとはしゃいでいる。
バルテレミー伯爵家には男子はおらず、イザベルとリアーヌのどちらかが婿をとって家を継ぐことになる。もう一人は、できるだけ有力な貴族の家に嫁ぐことを望まれているのだろう。
ミシェルはこの家に有力貴族に嫁に出すほどの持参金があるのだろうかと疑問に思っていた。激しい恋愛の末の身分差婚や貧しさ故の身売り結婚などは例外だが、持参金の金額は基本的に嫁ぐ家の家格で大体相場が決まっているのだ。
バルテレミー伯爵は、本心では、娘に『激しい恋愛』をして欲しいのだろう。
それから一時間ほどしてようやく話し疲れたのか、二人は着替えて寝るといって部屋に向かった。ミシェルは風呂と着替えの世話をして、片付けてから自室に戻る。
外が白み始めているのを薄いカーテン越しに見ながら、布団を被り目を閉じた。
少しでも長く眠ることが、今ミシェルにできる唯一の抵抗だった。




