8章 夜会の始まり
ミシェル視点です。
◇ ◇ ◇
「緊張している?」
ラファエルがミシェルの手を引いて馬車から降りながら言う。
ミシェルは恥ずかしさを隠さずに照れ笑いで返し、そっと踏み台に足を乗せた。
「ええ。前回は、その……散々な結果でしたから」
王城で行われる夜会にミシェルが参加するのは、これが二度目だ。一度目は社交界デビューのときで、イザベルとリアーヌに『貧乏神』と呼ばれ散々な目に遭った。
あれから一か月。今回は、フェリエ公爵夫人としての参加である。
公爵夫人であるミシェルに表立って文句を言うような人はいない。その分、影で噂話の対象となるのは仕方がないと分かっていた。
「そうだね。ううん……私の隣にいるときは大丈夫だろうけど。そうでないときは、できるだけこの前の披露宴にいた人の側にいるようにして。そうすれば、ミシェルが何かされるようなことはない筈だよ」
ラファエルの優しい言葉が、すうっとミシェルの中に染み込んでいく。ミシェルは気合いを入れた分まで背筋を伸ばし、ラファエルの横顔を見上げた。
「ありがとうございます。ラファエル様のお邪魔にならないよう、頑張りますね」
「いや、君が邪魔になることはないけれど……」
ラファエルが困ったように微笑んで、王城の扉をくぐる。
前回よりも建物の奥にある扉から入ることができたのは、家格の差だろう。ここまで混雑が無かったのも、入り口までの道が違うからだ。
それだけの力を、フェリエ公爵家は持っているのである。
「そう言っていただけて、嬉しいですわ」
「大丈夫。怖いことは起こらないよ」
アランとナタリアと共に初めて訪れた王城は、全てがミシェルにとって異質で、恐ろしいもののように見えた。助けを求めようとしていた相手すら、どこか近付き難く、関わってはいけないように感じていた。
冷静に行動していたようで、今になるとどうしようもなく緊張して非効率的なことをしていたのだと分かる。
可能であれば、事前にアランの何らかの罪の証拠を探し出して、夜会の場で王族か騎士に直接訴えることもできたのだ。
当然そのためには、ミシェルがアランの犯罪について知っている必要があり、あの環境では不可能に近いことだったのは間違いはないが。
「はい……きっと」
ミシェルが曖昧に微笑むと、ラファエルがミシェルの身体をそっと引き寄せた。
距離が縮まり、耳元に吐息交じりの声がかかる。
「そんなことより、私が選んだドレスを皆に見せびらかす方を優先してほしいな。私のミシェルが誰より綺麗だと、自慢して回りたいくらいだから」
ミシェルは今すぐ耳を塞いでしまいたくなった。真っ赤になった頬は、化粧で多少は誤魔化せているだろうか。
今日のミシェルは、先日仕立屋を呼んで作ってもらったドレスを着ている。
アメジストのような紫色の生地の上に淡い水色のシフォンを幾重にも重ねたドレスは、ミシェルが動く度に軽やかに揺れる。派手な飾りはなく、装飾はレースの手袋と腰についたリボンだけである。
髪もドレスの雰囲気に合わせ、癖のあるふわふわの髪をあえてハーフアップに纏めた。
そんな中、圧倒的に存在感があるのは、大粒のアクアマリンの首飾りと、アメジストを加工した薔薇の髪飾りだ。どちらも職人の手による逸品であることが分かる繊細な細工で、ミシェルの美しさを更に引き立てている。
分かりやすく二人の色を纏ったミシェルをエスコートするラファエルは、どこか満足げだ。
「ラファエル様、お戯れが過ぎますわ」
「妻を褒めているのだから、良いでしょう」
更に言い返そうとしたところで、会場である大広間に辿り着いた。
皆が次々と到着する時間で、両開きの大きな扉は開かれたままになっている。開いた扉の向こうから、夜とは思えないほど明るい光が差し込んでくる。いくつものシャンデリアが、光を反射して照らしているのだ。
まるで街中の明かりが集められているかのようだった。
そんなことに、今は少しわくわくしている。
これから先、友達はできるだろうか。しっかり社交はこなせるだろうか。何か問題が起きても、毅然と対処できるだろうか。
その全てをフェリエ公爵夫人として、ラファエルに相応しくこなさなければならない。
それは重いが、同時に背負い甲斐のある責任だ。
ミシェルはラファエルに救われた。
ずっと隣にいることができるのならば、ミシェルの全てでラファエルの恩に報いたい。
「少しは緊張が解れたかな。それじゃあ、行こうか」
「はい」
二人並んで、扉を抜けた。
今日の夜会は、月見の宴というらしい。一年間で最も月が大きく見える日に行われる夜会で、昔からの伝統行事でもある。この夜会ではカーテンが全て開けられている。庭園への移動も自由となっており、外で静かに月を楽しむこともできた。
会場には、既に多くの貴族が集まっている。
この中にはきっとバルテレミー伯爵家の双子もいるだろう。前回の夜会でミシェルを『貧乏神』だと認識している人もいるに違いない。
それでも、前を向くと決めた。
ミシェルとラファエルを見た者達は、皆が一度はその美しい二人の姿に見惚れていた。一瞬の静寂が広がって、小さな騒めきを生み出していく。それが不快ではないのは、側にラファエルがいるからだろう。
少しして王族が入場してきた。国王と王妃、そして二人の王子が、以前の夜会同様に王族席に座る。
給仕が最初のグラスを配り終えると、国王が立ち上がった。
「──今宵の月を讃えて、乾杯」
短い挨拶と共に、皆がグラスを軽く掲げて飲み干す。
ミシェルも、ラファエルに教わったことを思い出しながら酒を飲んだ。




