7章 初めての抱擁
「どうしてラファエル様は、私に優しくしてくださるのですか?」
質問した瞬間、ラファエルの瞳に僅かに影が差した。それを誤魔化すようにミシェルの手を離したラファエルが、額に触れるだけのキスをする。
ミシェルは、咄嗟に両手で自分の額を両手で隠した。
顔が熱い。頬が染まっていることは誰に指摘されなくても分かる。
「いつか、話すから。それまで待ってて」
そうして話を終えようと不自然に微笑むラファエルに、ミシェルは申し訳ない気持ちになる。気になったから聞いてしまったのだが、ラファエルが話したくないのなら知らなくても良い。
聞かれたくないことを聞いてしまったのならば、怒られて当然なのに。ラファエルは、伝えられないでいる自分が悪いような顔をするから。
「……無理に話さなくてもよろしいのですよ?」
「いや。ミシェルには、いつか、聞いてほしい」
覚悟と、優しさと、恐れと、希望と。感情に色があるのならば、今のミシェルとラファエルのそれは何色だろう。
はっきりとしないそれを愛おしいと思ったのは、初めてだった。
「はい、分かりました。……いつか、ですね」
ミシェルが素直に頷くと、ラファエルは自分の席に戻っていった。冷めてしまった食事を温め直そうとする給仕にこのままで良いと言って、カトラリーに手を伸ばす。
もう、いつものラファエルに戻っていた。
「話を戻すけど、オードラン伯爵の件は本当に大丈夫?」
ミシェルは改めて問われ、自分の心と向き合った。
六歳までのミシェルは、アランとほとんど会わずに育った。十三歳のとき、バルテレミー伯爵邸に迎えに来てくれたときは嬉しかったような気もするが、オードラン伯爵邸に着いてすぐそれも失望に変わった。十六歳で社交界デビューをし、見放されたことが辛かった。
しかしそんな感情も、アランがエマを森に放り出した時点で、全てどうでも良くなってしまっている。
ミシェルにとってアランは、大切な人を傷付けた罪人でしかない。
もう、決して兄とは呼ばないだろう。
「薄情者とお思いになるかもしれませんが、私はあの日のオードラン伯爵の行動をどうしても許せません。それに、自業自得のようですし……庇うつもりもございません」
ミシェルがはっきりと言うと、ラファエルも安心したようだった。
「ありがとう。そう言ってもらえて良かった」
「あ、でも、領地は……」
アランとナタリアはどうなっても構わないが、オードラン伯爵家は領地を持っている貴族である。昔からあまり利益を生み出さない土地だったため、どの当主も粗雑に扱うことが多い土地だったらしい。
ミシェルにはそこに行った記憶すらないが、領地があると知っていると気になってしまう。
「調査は入るけれど、今領地の管理をしているのが遠縁にあたる貴族のようだから、彼にそのまま譲渡する案が濃厚なようだよ。今まで当主が領地に金を使うことを渋っていた分も、自分のものになったらやりたいことがあるようだ」
「ありがとうございます。何から何まで……」
今日まであのアランの元で実直に務めていた人であれば、きっと領地を任されても上手くやるだろう。むしろ今までアランの下で働かされていたことが可哀想だったと言える。
「ミシェルが気にすることじゃないよ」
ラファエルが微笑み、ミシェルに食事の続きを促す。
料理は冷めてしまっていたが、それでもとても美味しかった。
食事の後、サロンで食後の紅茶を飲んでいると、ラファエルが思い出したように話し始める。
「そういえば、ミシェルのドレスを仕立てないといけないんだ。どんなものが良い?」
ミシェルはその突然の質問に首を傾げる。
「ドレスですか?」
「結婚したばかりだけど、今は社交シーズン中で議会もあるし、新婚旅行は落ち着いてからにさせてほしいんだ。それで、一緒に夜会に出てもらうためのドレスを仕立てたくて」
「ありがとうございます。ですが、あまりイメージが湧かなくて」
「そうだよね。だから、次の休みに仕立屋を呼ぶよ。エマと一緒に選べるようにするから」
ミシェルはその楽しそうな予定に瞳を輝かせた。
エマはオードラン伯爵家で誰よりミシェルの服装を気遣ってくれた。一緒に選べたら、きっと一人では決められないミシェルを助けてくれるし、エマも楽しんでくれることだろう。
「よろしいのですか?」
「うん。エマはミシェルにお洒落をさせたがっていると思うよ。ついでに普段着も少ないから、纏めて作ろう」
ミシェルは咄嗟に断ろうとして無意識に持ち上げた手をそっと下ろした。
確かにミシェルは相変わらず服が少ない。結婚式まではそれどころではなく、ラシュレー侯爵家で貰ったクラリスの服を着て誤魔化していたが、流石に公爵夫人がそれではいけないだろう。
というよりも、ラファエルは決してそれでは誤魔化されてはくれないだろう。
「はい。よろしくお願いします」
ミシェルが引き攣った笑みで言うと、ラファエルが声を上げて笑った。
「そんなに固くならないで。大丈夫だから」
「ですが、買っていただくばかりなのも気になってしまいますわ」
まだ結婚したばかりで、ミシェルは今日までまだ何も妻らしいことをしていない。夜の相手さえ、させてはもらえなかったのだ。
優しくされることは嬉しいけれど、ミシェルはもっと何でもできる。
それだけの勉強はしてきているのだ。
「そうだね。──それじゃあ、明日以降はミシェルに女主人の仕事を少しずつ回してもらえるよう、ダミアンに頼んでおくよ。これまでメイド長のエリーズが代わりにやってくれていたから、きっと助かる筈だ。それに、公爵家のことも学べるようにしよう」
ミシェルはようやくこの場所を自分の家にしていけるような気がして、ほっと息を吐く。
しかしラファエルはそれだけでなく、言葉を続けた。
「でも、少しずつだ。これから社交もしていかなければならないのだから、午後は必ず自由な時間を作ること。その時間で、やりたいこととか、好きなことを探していけばいい」
「やりたいこと、好きなこと、ですか?」
「そう。これから、この場所で過ごしていくのだから。絵画でも、楽器でも、園芸でも、商売でも。なんでも良いから、やってみてごらん」
まるでそれが当然のことだと言うように、ラファエルが言う。
驚いてその綺麗な瞳を見つめていると、やがて柔らかく細められる。ラファエルの美し過ぎる顔が、人間らしい笑顔になった。
「はい、ありがとうございます」
ミシェルが心からの笑顔で言うと、思わずといったようにラファエルの手がミシェルに伸びた。
抱き締められるかも──と期待したミシェルに触れる直前で、その手が止まる。ラファエルは誤魔化しきれない手をひらひらと振って、ぱたりと座面に下ろした。
「ごめん」
「……え? あの」
困惑したミシェルが言うと、ラファエルが苦笑する。
「いや。勝手に触れるのは、よくないかと」
ミシェルは思わず吹き出して、ラファエルに向き直る。
本当に、変わった人だ。
ミシェルを幸せにしたいと言ったり、恋をしようと提案したり。アランの断罪だって、きっとミシェルのためでもあるのだろう。
どうしてこんなにしてくれるのか、まだ聞けないことはもどかしいけれど。
それでも、触れられることは嫌ではない。それどころか、ミシェルは確かに今、温かい腕を望んでいた。
「ラファエル様なら、良いですよ」
ミシェルが思いきってラファエルの胸に身体を傾けると、ラファエルはすぐにしっかりと抱き留めてくれた。背中に回された腕が、優しくて温かい。
身体中の血が沸騰しているかのようだ。
耳元で聞こえる鼓動は、ミシェルのものかラファエルのものか。
どきどきと高鳴って、壊れてしまいそうだ。
ミシェルが、ラファエルの背中におずおずと手を回す。
初めて抱き締めた男性の身体は、大きくて固くて、緊張するのに、不思議と全てを受け入れられているような安心感があった。




