1章 パンひとつぶんの優しさ
目が覚めても、倉庫の中は真っ暗なままだった。時間が分からないことが、ミシェルを不安にする。
うんと手を伸ばしてから軽く身体を動かし、ゆっくりと目を慣らしていく。
目が慣れてくると、地面に何かが落ちていることに気付いた。寝る前にはなかったものだから、誰かが入れたのだろう。
「──これ」
そこにあったのは大きなパンだった。小柄なミシェルが一食では食べきれないくらいの大きさのパンが、丁寧に紙袋に入れられている。焼かれてから時間が経っているようで冷えてはいるが、顔を近づけると香ばしい小麦の匂いがした。
その匂いを合図にしたように、ミシェルの腹がぐうと音を鳴らす。
「大丈夫、だよね」
ミシェルは思いきってそのパンをちぎって、口に運んだ。しっかりとした食感と塩気が口の中に広がって、咀嚼する度に肩の力が抜けていく。
「美味しい」
ミシェルは三分の一だけ食べて、パンを袋に戻した。もう貰えないかもしれない上、いつ出してもらえるかも分からない。食料は大切にするべきだ。
それから寝る前に抜ききれていなかった草を抜いて、寝床に重ねた。しばらく作業をして、また丸くなって眠る。起きていたら余計なことを考えて、悲しい気持ちになってしまう。
次の日の朝になると、また新しいパンが置かれていた。
それを繰り返し、ミシェルがそこから出されたのは、三日が経ってからだった。
倉庫から出されたミシェルは、そのまま風呂につれて行かれた。
一緒に入りましょうと言われた浴室で、逃げることも許されなかったミシェルは溺れる直前まで水攻めをされた。
ミシェルはぼおっとする意識の中、これを楽しいと感じて笑っている二人は、きっと頭のねじが何本か飛んでいるのだろうと、どうしようもないことを考えた。
意識を失ったミシェルは、ようやく自室に行くことを許された。意識を無くしぐったりと倒れたミシェルを『壊したかもしれない』と慌てた二人が、使用人に運ばせたのだ。
目覚めたミシェルは、そこが思っていたよりも普通の部屋だったことに驚いた。
寝台と机とテーブルと椅子がある、小さい部屋だった。一般的な使用人部屋だろう。
「もっととんでもないところかもしれないと思ったけど、……この部屋で良かった」
イザベルとリアーヌにとってはこれも虐めの一環なのだろうが、二人の近くの部屋にされるよりずっとましだ。
クローゼットの中には使用人のお仕着せと同じ色の子供服が複数入っていて、ミシェルはまともな服を与えられていたことにほっとした。
それからミシェルは、イザベルとリアーヌの『おもちゃ』としての生活を送ることになった。
朝起きて、使用人と一緒に屋敷中の洗濯物を回収する。
朝食は二人に呼ばれれば一階の食堂に行き、そうでなければ地下にある使用人用の食堂で食べる。
イザベルとリアーヌが家庭教師と勉強している時間は、ミシェルは使用人に混じって掃除や片付けをした。
日が傾き始める頃になると、イザベルとリアーヌがミシェルで遊びに来る。それから眠るまでが一番辛い時間だった。
バルテレミー伯爵は殆どの時間を外で過ごしていた。伯爵夫人はミシェルが使用人のように働いていれば、何も言わない。
そんな生活の繰り返しの中で、ミシェルは気付く。
屋敷で出されるパンが、あの日、真っ暗な倉庫で食べた味と同じだということに。
「──倉庫でパンをくれたの、料理長さんですよね。ありがとうございました」
ミシェルは早速、誰にも見咎められない時間を狙って、厨房の裏にある小窓からこっそりと料理長に声をかけた。
料理長は、髭を生やした大柄な男性だった。傭兵といわれても違和感のない見た目で、小窓から覗いたミシェルに驚いて目をぱしぱしと瞬かせる。
料理長は良い人だ。
何故なら、ミシェルが食事を食べ損ねる度、こっそりと食事の残りをくれるからだ。とはいえ面と向かって渡されるのではなく、いつもミシェルが自室に戻るとドアの前にそっと置かれている。証拠が残らないように皿を使わず、紙に包む徹底ぶりだ。
ミシェルが皿を返しに行くのを見つかると大変な目に遭うと、分かっているのだろう。
「……お前が酷い目に遭ってるのに助けてやることもできないんだから、礼なんて言わなくて良いさ。そんなことより、こんなところ見られたら──」
「今は大丈夫です。奥様が二人を連れてお茶会に行っているので」
ミシェルはそう言って苦笑した。苦笑であっても、久し振りの笑顔だった。
良かった、まだ笑える。
ミシェルは自分が壊れていないことに安堵した。
「そうか。それなら、これ食ってけ」
料理長が、ミシェルに窓から皿を渡してくる。受け取ると、ふわりと濃厚な肉の香りが鼻を擽った。見るからに美味しそうなビーフシチューだ。
「良いんですか?」
「どうせ普段から大したもん食わせてもらってないんだろ。良いから、さっさと食べちまいな」
「ありがとうございます!」
ミシェルは早速窓の下、ちょうど木の陰になるところに座り込んだ。
添えられたパンを浸して口に入れると、パンの甘さとシチューの塩気が混ざり合う。贅沢に葡萄酒を使っていることが分かる濃厚な味に、ミシェルはほうと息を吐いた。
オードラン伯爵家にいたときにも食べたことがないほど、美味しかった。
ほとんどの時間、満足に腹を満たしていない状態で過ごしているミシェルは、あっという間に皿を空にした。
礼を言って皿を返すと、綺麗になった皿を見た料理長が溜息を吐いた。
「……俺はデジレってんだ。大抵ここにいるから、いつでも遊びに来い。そのままじゃ本当に壊れちまう」
「デジレさん、どうして──」
「良いか。普通の大人っていうのは、可哀想な子供を放っておけないもんなんだよ」
ミシェルは心がずきんと痛むのに気付かない振りをした。
デジレが言っていることは正しいことだ。ミシェルの母親以外、ミシェルをそう扱った大人はいなかったけれど。
その正しさは、歪みの只中にいるミシェルには眩し過ぎる。
「──デジレさん、本当にありがとうございました。でも……あんまり、無理しないでください」
ミシェルは知っている。ミシェルに優しくすることは、この屋敷の中では許されないことであるということを。
他の使用人は、ミシェルのことを見て見ぬふりしている。側で水を被っていても、転ばされて怪我をしていても、誰も何も言わない。
自分に害が及ばないように、皆必死なのだ。
「子供に心配されるような柔な男じゃねえよ。そういえばお前の名前、まだ聞いてないな」
デジレの大きな手が窓から伸びてきて、ミシェルの頭をがしがしと撫でた。荒れた大きな手は、ミシェルの心臓ごと掴んでいく。
「ミシェル、です。──……また来ますっ!」
ミシェルは逃げるようにそこから立ち去った。そうでなければ、みっともなく泣いて縋ってしまっていただろう。心優しいデジレは困ってしまうに違いない。
許される甘え方をしなければ、拒絶されるだろう。
ミシェルは持ち場である洗濯場に戻り、一心に水に濡れたシーツをこすり合わせた。冬の寒さで冷やされた水で小さな手がみるみる赤くなる。痛みを感じるが、それを気にする心はもうなくなっていた。
ばしゃばしゃと水が跳ねる。
ミシェルはわざとそうして、跳ねた水を服と顔で受けた。
泣いてしまったことが、イザベルとリアーヌにばれてしまわないように。