6章 温かな手の平
少なめに入れてくれていたミシェルのグラスが空になって、ラファエルは今度は一般的な分量の酒を注いだ。
しばらくそうしていたが、ミシェルは特別酒に弱くはなかったようで、特に不調を覚えることもなく、純粋にこの空間を楽しめていた。
ラファエルもそれに安心したようで、二人の会話も弾んでいく。
「ミシェルは何色が好き? まだこの部屋は物が少ないから、ミシェルの好みにしていけたらと思うんだけど」
ラファエルがミシェルに問いかける。
「私の好みに、ですか?」
「そう。ここはもうミシェルの部屋だからね。カーテンもカバーも変えて構わないよ」
ミシェルはその何でもない質問に、困ることになった。
「ううん……考えたことありませんでした」
「考えたことがない?」
ラファエルが首を傾げて続きを促す。
ミシェルはこれまでの日々を思い出した。
自分の好みを考えるほど心に余裕がある生活はしていなかった。服も、靴も、身につけるものは着られるかどうかで選んできたのだ。
だから、似合うものはなんとなくエマのお陰で分かるが、好きなものと言われると分からない。
「これまで、与えられた物を使うことが多かったので……そんな顔をしないでください」
ラファエルが眉を下げて少し俯いている。その目は、グラスの中の酒に向けられていた。先程までの微笑みが陰っているのは少し酔っているからか、ミシェルと二人きりだからか。
こちらを見ていないのは、笑顔が崩れている自覚があるからかもしれない。
「そんな顔と言われてもね。……聞かれて嫌だったら言ってほしいんだけど、ミシェルはどうしてこれまでそのような扱いを受けていたのか分かる? 伯爵とは血が繋がっていたんだよね」
ミシェルはラファエルの質問に驚いた。これまで、考えもしなかったことだったのだ。
しかし、ミシェルの母親は確かにオードラン伯爵家の妻であったし、たまに文句を言いながらも父親を愛していたように思う。一人で行動することもほとんどなく、精々実家に帰るときくらいだった。
そして母親とミシェルは良く似ている。
アランが生まれたときの話も、母親から聞いたことがあった。
「私も兄……いえ、オードラン伯爵も、同じ母親から生まれたことは間違いないと思います。母が不貞をしていたかどうかまでは分かりませんが……でも、一人で行動することはほとんどなかったです。──昔から、貧しい家でしたから」
「そうだよね。変なことを聞いてごめん。忘れて」
ラファエルがグラスの残りを一気に飲み干した。
ミシェルは返事に迷って、自分のグラスを傾けて一口だけ飲む。やはり甘くて熱いそれは、ミシェルの不安を少し和らげてくれる。
「……はい、忘れました」
ミシェルが微笑んで見せると、ラファエルはようやく顔を上げた。
何度見ても、その瞳に吸い込まれてしまいそうだと思う。夕暮れのあわいの色であり、アメジストのような透明感までもあるその色が、ミシェルとの境まで曖昧にしていくようだ。
ミシェルは、ふと思い立って言葉を続ける。
「私、ラファエル様の瞳の色は好きですよ。……少し怖いなって思うくらい」
ミシェルはじっとラファエルの瞳を覗き込んだ。
なんだかふわふわとした気持ちになっているのは、酒に酔っているからだろうか。それとも、ラファエルの甘さに酔っているのか。
分からなくて、ミシェルはラファエルがグラスに添えている手にそっと自分の手を重ねた。
触れただけなのに、指がぴくりと動く。それが可愛いと思った。
「ミシェル、何をして──」
「触れてはいけませんでしたか?」
「い、いや。そうではないんだけど」
ラファエルがぱっとグラスから手を離して、ミシェルの手を握り直す。思った以上に固さのあるその手の平に、心臓が大きな音を立てた。
「あまり煽らないで。……酔っているんだよ、ミシェル」
ミシェルはもう二杯と半分くらい葡萄酒を飲んでいる。ラファエルに手を握られて、ミシェルは自分の手が温かくなっていることに気が付いた。
確かに、酒を飲むのは初めてだ。きっとこれくらいで止めておくのが良いのだろう。
「そうですね。酔っているみたいです」
ミシェルが言うと、ラファエルが繋いだ手を引いて立ち上がった。それから優しく手を引いて、寝台まで連れてきてくれた。
ミシェルが横になるのを待って、ラファエルは繋いだままの手を離そうとする。
「おやすみ、ミシェル」
「待って──」
ミシェルは咄嗟に上体を起こし、離れていく手を追いかけていた。
触れたのは、ラファエルの小指の先だけ。
それなのに、ラファエルははっと立ち止まって、ミシェルの表情を窺っている。
「……どうしたの?」
「今夜は、一緒にいてはくれないのですか?」
こんなに長い時間、楽しく会話ができたのはラファエルだからだ。今日結婚式を挙げて晴れて夫婦になったのだから、何があっても問題ないだろう。
ミシェルにできることは、こんなことしか思い付かなかった。
ラファエルが微笑みを消して、真面目な顔でミシェルを見つめている。その頬が染まって見えるのは、ランプの明かりのせいだけではないだろう。
「──……大事に、したいんだ」
絞り出すような声に、ミシェルは息を呑んだ。
ラファエルがそっと寝台に上がってくる。一人で寝るには大き過ぎる寝台は、当然二人で寝てもゆったりとしている。
ラファエルが、着ていた上着を脱いだ。
「だから、ミシェルが寂しいなら、側にいるよ。でも今日は、手を繋ぐだけ」
「ラファエル様?」
ミシェルが首を傾げると、ラファエルは小さく笑って横になった。ミシェルも手を引いて促され、素直に身体を横たえる。
「ミシェルが本当に私を好きになってくれたら、そのとき、ね」
ミシェルはラファエルの言葉に今度こそ心から驚いた。
表情を確認したかったが、枕と布団でよく見えない。
政略結婚をした夫婦の間に愛がないなど、よくある話だ。別に愛がなくても子供はできるから、せめてできるだけ優しい夫の元に嫁ぎたい──それは、ミシェルだけでない、貴族令嬢皆の総意だろう。
それなのにラファエルは、まずは恋をしようと言ってくれているのだ。
「好きに、ですか?」
戸惑いを隠せずにいるミシェルに、ラファエルは頷く。
「そう。これからずっと一緒にいるんだから、お互いに恋をしたいと、私は思うよ」
ミシェルはまだ恋を知らない。教本の中の物語ではいくつか恋愛を主題としたものもあったが、その程度だ。
そう言うとラファエルは軽く笑って、ミシェルの頭をふわりと撫でた。
「これから少しずつ知っていけば良いよ。時間なら、たくさんあるんだから」
「……はい」
「おやすみ、ミシェル」
「おやすみなさい、ラファエル様」
目を閉じると、手の温かさをより強く感じる。繋がったところから少しずつ互いの熱が混ざって、境界線が曖昧になっていく。
二人で入る布団は、あっという間に温まって。
ミシェルはその日の夢の中でも、ずっとラファエルと手を繋いでいた。




