6章 ミシェルの選択
「──ミシェル・ラシュレー侯爵令嬢、ですって」
ミシェルは映し出された自分の輪郭をなぞりながら呟く。
ラシュレー侯爵夫妻はとても優しい人達だった。ミシェルを家族だと、ここを実家だと思えと、そう言ってくれた。
そしてミシェルは二日後、ラファエルの妻になる。
突然決められたミシェル・フェリエ公爵夫人という未来は、ミシェルの中にまだ馴染んでいない。これまでの生活からして、かえってアンドレ伯爵の妻になれと言われていた未来の方がしっくりくるくらいだ。
「大丈夫かしら」
鏡の中のミシェルは透きとおったアクアマリンの瞳でミシェルを覗き込んでいる。
あの不自由過ぎる場所から逃げ出して、ミシェルはどこへ行こうとしているのか。
ぐらぐらと揺れる足場が不安で、眩暈がしそうだった。
「──ミシェル嬢、少し良いかな?」
「はい。どうぞ」
部屋の入り口から聞こえた声はラファエルのものだ。ミシェルは反射的に返事をして、鏡から手を離した。
ラファエルは片付いた部屋を見て、納得したように頷く。
「ドレスの確認は終わったんだね。ミシェル嬢のためのドレスを用意できなくて、ごめん」
「いいえ。私に合わせて直しを入れてくださると仰っておりました。ありがとうございます」
ミシェルが首を振る。心からの言葉の筈なのに、どこか空虚に響く音がミシェルを追い詰めてくる。どうしようもない何かからの圧迫感が、恐ろしかった。
「ミシェル嬢。エマ嬢から、話を聞いたよ。二人はオードラン伯爵家を出て、ベリンダ共和国に行くつもりだったと」
ミシェルはエマと語り合った日を思い出した。
追い詰められていたけれど、確かに未来への希望があった日のことを。
「……はい。家出をした伯爵令嬢が、この国で生きて行けるとは思いませんでした。それならいっそのこと、ベリンダに行ってしまえば、姿を隠すことなく仕事も探せると──」
ミシェルが言うと、ラファエルが僅かに表情を暗くした。普通の人ならば気が付かないくらいの本当に僅かな変化だ。ミシェルが気付いたのは、他人の顔色を窺って生活することに慣れているからに過ぎない。
「──ベリンダ共和国に、行きたい?」
ラファエルの申し出に、ミシェルは指先まで全て石になってしまったように固まった。
さっきまで抱いていた不安や迷いもどうでも良くなってしまうほど、衝撃的な言葉だった。
「もしベリンダに行きたいのなら、エマ嬢と君を船に乗せてあげる」
「ですがそれでは、公爵様の結婚式のお相手が……」
「そうなったらそれはそのときだ。どうにかできるよ」
ミシェルは言葉に詰まった。それは、一度は覚悟を決めた未来だ。ラファエルの妻になるよりもずっと気楽で、想像しやすい未来だ。
しかしラファエルは、ミシェルを助けてくれた。ミシェルの話を聞いて、エマを探してくれた。新しい家族を作ってくれた。
そして今は、エマから話を聞いて、ミシェルに未来の選択肢を提示してくれている。
「私はもうラシュレー侯爵家の人間です。公爵様と結婚することは、決まっているのでしょう? それに、ドレスだって──」
ミシェルが言うと、ラファエルは首を左右に振る。
「ラシュレー侯爵家の人間なのは事実だが、急な養子縁組で困惑させたことは理解しているんだ。エマ嬢も見つかったのだから、迷うことはないよ」
ラファエルは溜息を吐いた。完璧であろう笑顔の中、綺麗な紫色の瞳だけが本物の夕暮れのように揺れている。きっとラファエルの中でも、何か葛藤があるのだろう。
「折角やっと自由になったんだ。これを楽しまない手はないだろう?」
ミシェルはラファエルから言われることで、この気持ちの正体に気付いた。
きっとミシェルは、満たされることに恐怖している。
これまで心に余裕がある状況を味わったことがなかった。いつも追い詰められていて、だからこそ走り続けていたのだ。だから、心が幸福に浸かることで、自分がどうなってしまうか分からなくて怖い。
しかしそれに気付くと、ミシェルがラファエルを恐れる理由はなくなる。
それに、満たされていたとしても、ミシェルはミシェルだ。変わることなど何もない。
「私がこちらでお世話になる場合、エマはどうなるのですか?」
「エマ嬢はこの家で雇うことになるよ。ミシェル嬢の侍女にするつもりだ。本人もそう言っていたからね」
ミシェルはその提案に驚いた。ラファエルはミシェルのことだけでなく、エマのこれからのことも当然のように考えてくれているのだ。
それを聞いて、覚悟が決まった。
「私は、公爵様のお側にいることにします」
ミシェルの言葉に、ラファエルははっと目を見開いた。
その笑顔ではない表情に、ミシェルは安心する。
エマと過ごすベリンダ共和国での暮らしも、きっと楽しかったと思う。当然辛いこともあるだろうが、エマとなら乗り越えられる自信がある。ミシェルがこれまでに勉強してきたことを活かせば、頑張れば問題なく生活できるだけの収入も得られるだろう。
しかしミシェルは元々、エマさえいればどこでも良かったのだ。
このフェリエ公爵邸にいても、ベリンダ共和国に行っても、エマと暮らしていられるのならば、ミシェルは、自由に選択することができる。
「──どうか、公爵様の妻にしてください」
ラファエルの瞳のあわいの向こうにあるものが何なのか、知りたかった。
助けてくれたラファエルに、恩返しがしたかった。
ラファエルはミシェルの選択を喜び、顔を輝かせた。
「ありがとう。私のことは、どうかラファエルと」
「……ラファエル様。これからよろしくお願いいたします」
おずおずと名前を呼んだミシェルに、ラファエルは眩しいものを見るような目を向ける。
「うん。よろしく、ミシェル」
妻となるのに、いつまでも『ミシェル嬢』では違和感があるから、呼び方が変わるのは当然だ。
ミシェルはくるりとラファエルに背中を向けた。恥ずかしくて、これ以上その顔を見ていられなかったのだ。しかし振り返った先には、先程までミシェルが見ていた鏡がある。
鏡に映った赤い頬は、鏡越しにラファエルにも見られてしまっただろう。




