6章 エマとラファエル
エマが森に捨てられたと知ったミシェルが自殺未遂をしたという話を聞いて、エマはミシェルを思いきり叱った。叱られるのは怖いことのはずなのに、エマに叱られるのは少しも怖くなく、それどころかミシェルは嬉しくなる。
こうしてエマといられることが、とても幸せだった。
食事を終えた後も、ミシェルとエマは二人に与えられた客間で会話を続けている。
それを、控えめなノックの音が遮った。
「──ミシェル様、少しお時間いただけますか? ドレスの手直しをさせていただきたいのですが」
声は女性の使用人のもののようだ。結婚式で着るドレスを、クラリスからミシェルに合わせて作り替えるのだろう。二人の体型はあまり大きく変わらないらしいので、少しの手直しで大丈夫だろう、とのことだ。
「はい、すぐ行きます。……エマ、私はちょっと出てくるけど、無理しちゃ駄目よ」
「分かりました。そんなに心配されなくても、大丈夫ですよ」
ミシェルを安心させるようにエマが言う。確かにこの客間には侍女が二人控えていて、エマが動かなくても何でもやってもらえるだろう。
ミシェルはそれでもエマが心配で、扉を閉める前にエマに手を振った。同じように振り返してくれたエマに、ミシェルは小さく安堵の息を吐いて、使用人の後について行った。
◇ ◇ ◇
一人部屋に残されたエマは、ミシェルの笑顔を思い出して口元が緩んでいた。
たくさん眠ったからか、昨夜森にいたというのに、体調はオードラン伯爵家にいたころよりも良い。ソファに座って用意してもらった果実水を飲むと、爽やかな甘さに幸福を感じる。
オードラン伯爵邸では、ミシェルはよく様々なものを諦めたような目をしていた。兄であるアランに理不尽な怒りをぶつけられても、ナタリアの嫉妬で怪我をしても、ミシェルはいつだって何でもないことのように振る舞っていたのだ。
ミシェルがあんな笑顔を浮かべることができたのは、きっとラファエルのお陰なのだろう。
今にも命を捨てようとしていたミシェルを助け、オードランの家との縁を切らせて、新しい家族と居場所を与え、エマのことまで拾い上げてくれた人だ。
ラファエルがミシェルを必要とする理由は筋が通っていて、エマにも納得できるものだった。きっとミシェルは、この家にいる限り、誰にも虐げられることはないだろう。
だからこそ、エマはラファエルのことが気にかかる。ミシェルと結婚する相手として、厳しい目を向けてしまっている自覚があった。
かつてエマは、社交の場でラファエルを見たことがあった。
その頃から夕暮れ空の君と呼ばれる貴公子であったラファエルを、エマは自分とは別世界の住人として認識していた。
婚約者とは最低限しか共に過ごさないものの、決して女遊びをするわけでもなく、ただ神さえも虜にしてしまうような笑顔で、令嬢達にその場限りの夢を見せていく。そんな印象のラファエルだからこそ、エマは今のラファエルの様子が気がかりなのだ。
「あんな表情をする人だった……?」
ラファエルがミシェルに向ける、心配で仕方がないというような、大切なものを見る瞳。出会ったばかりの令嬢に向けるには、いささか感情が重過ぎると言って良いだろう。
エマが一人ソファに座って思考の渦に沈んでいると、とんとんとん、と軽く扉を叩く音がした。
「はい」
「エマ嬢、お加減いかがですか? ラファエルです。少し話を聞きたいのだけど」
エマは、来たか、と思った。
昼食の席では、ラファエルからエマに直接質問をすることはそう多くなかった。だからこそミシェルに聞かせたくない話を、エマとだけするために、必ず来ると思っていた。
「構いません。どうぞ」
扉が開いて、ラファエルが従者を連れて入ってくる。ダミアンと名乗った従者は、ラファエルの一歩後ろに控えていた。
「お休みのところ申し訳ない」
「いいえ、公爵様はいらっしゃると思っておりました」
エマが言うと、ラファエルは苦笑してエマの向かい側のソファに腰を下ろす。ダミアンが部屋の扉を閉め、室内には三人だけになった。
ラファエルが真剣な表情をエマに向ける。
「あまり聞かれたくない話だから、扉は閉めさせてもらうね。──さっきは聞かなかったんだけれど、オードラン伯爵家でのミシェル嬢の話を聞かせてくれないか? 些細なことも話してほしい。二人が伯爵家から逃げようと思うまでの経緯も、全て」
「はい。全てお話いたします」
ラファエルは、エマが話すことでミシェルが思い出して辛い思いをしないように、今こうして聞きにきてくれたのだろう。そのミシェルへの心遣いがエマは嬉しい。
エマはこれまで誰にも話せずにいたことまで、全て話した。
ナタリアの侍女からスカラリーメイドにされ、ミシェルの唯一の侍女になった。ミシェルがどれだけ努力をしてきたのか、エマは誰より知っている。
初めて会ったときは、食事をろくにもらっていなかったのかというほど細く、薄汚れていた。男爵家の四女でありあまり貴族令嬢らしくしてこなかった自分よりもずっと平民のようで、伯爵家の令嬢がこれとはどういうことかと驚いたものだ。
それなのに、ミシェルはまさに血のにじむような努力をして、数年でどこに出しても恥ずかしくないほどの立派な令嬢に成長した。アランとナタリアから虐げられても決して折れない姿を見る度、エマだけは絶対にどんなときもミシェルの味方でいようと何度も思った。
しかし、アンドレ伯爵との縁談話を聞いて、ついにエマは我慢ができなくなった。
自分はどんな目に遭っても構わない。絶対にミシェルの未来だけは繋ぎたいと、強く願ってしまったのだ。
そこまで話して、エマはラファエルの表情を窺った。ラファエルの細められた瞳の奥には、確かに怒りの色が滲んでいる。
「──それで、二人はその後どうするつもりだったの? 年頃の令嬢二人だけで、ミシェル嬢は姿も隠さなければならないだろう」
「しばらく下町の部屋で生活をして、警備が緩んだところでベリンダ共和国に行こうかと話しておりました」
エマの言葉に、ラファエルが納得したように頷いた。
「そうか。ベリンダなら移民も多いし、個人の素性を追求する人もそういないね。令嬢教育を受けていたミシェル嬢なら、共通語も学んでいるのだろう?」
「はい」
ネフティス王国では、歴史ある王国固有のネフティス語が日常生活で使われている。しかし他国との交流の場では共通語が使われるのだ。特にその場が多い貴族や大商人は、共通語を学ぶことが必須とされている。
何かを考えているのか、ラファエルが人差し指と中指を揃えて顳顬に当てている。
エマは改めて正面からラファエルの瞳を見据えて、口を開いた。
「公爵様」
「何かな?」
エマに呼ばれて、ラファエルが思考を中断する。
「──私を、ミシェル様の侍女として、こちらで雇ってはいただけませんか?」
明後日、ミシェルはラファエルと結婚する。エマがミシェルの側にいるためには、それ以外に方法はない。
しかしエマは今こうしているが、アランからはミシェルの誘拐未遂犯と言われた身だ。フェリエ公爵家で世話になることで迷惑をかけてしまうかもしれない。
エマが覚悟をして言った我儘のつもりの申し出を、ラファエルは笑顔で受け入れた。
「それは、勿論。ミシェル嬢もその方が安心するだろうから、こちらからお願いしたいくらいだよ」
ありがとう、と続けられた言葉に、エマは不覚にも泣きそうになった。




