5章 家族の優しさ
◇ ◇ ◇
ミシェルはこれまでになくすっきりとした頭で目を覚ました。
昨日たくさん走ったからか、身体のあちこちが引き攣るように痛かった。これが筋肉痛というものだろうか。屋敷からこれまで出たことがなかったミシェルには初めての経験だ。
いつの間にか降ろされている天蓋越しに透ける日の光が、今が朝なのだと教えてくれる。
ミシェルが上半身を起こすと、天蓋の外から侍女が声をかけてきた。
「──ミシェルお嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
聞き覚えのない声だ。
ミシェルはそれがラシュレー侯爵家の使用人のものだと気付いて、はっと顔を上げた。
「はい。おはようございます」
昨日のうちに、アルベールは王城に養子縁組の書類を提出しに行ったらしい。フェリエ公爵であるラファエルと、その幼馴染の王子達の口添えもあり、提出したその場ですぐに承認印を貰うことができたという。
ミシェルは、もうラシュレー侯爵家の娘となっていた。
「おはようございます。お支度のお手伝いをさせていただきます」
端に寄せた天蓋が柱に括りつけられると、一気に視界が開く。室内には今声をかけてくれた侍女以外にも、二人の侍女が控えていた。
三人がかりで着替えをさせられ、髪を結われ、化粧もしてもらった。
「いかがでしょうか?」
鏡の中には、すっかり令嬢らしく装ったミシェルがいる。柔らかな桃色のワンピースドレスは可愛らしく、ミシェルの髪色によく似合っていた。
「素敵だわ。でも、この服は?」
「当家のお嬢様でありますクラリス様が、以前お召しになっていたものでございます。ミシェル様の姉にあたる方です」
ミシェルは昨日聞いた話を思い出した。
クラリスはラファエルの元婚約者で、執事と駆け落ちをしたという令嬢だ。
「私が着てもよろしいのかしら?」
「もうお召しにならないものですので、お気になさらなくて大丈夫ですよ」
侍女によるとクラリスは今十九歳で、可愛らしいドレスはあまり好まなくなったらしい。ミシェルに似合うからと、フランシーヌが選んでくれたという。
「それならお借りするわ。ありがとう」
支度を終えたミシェルは、アルベールとフランシーヌに呼ばれて食堂に移動した。
二人は着替えたミシェルを可愛いと褒めてくれ、一緒に朝食をしようと誘われる。食事中も、二人はミシェル自身のことは聞かずに、なんでもない世間話に花を咲かせていた。
ミシェルが会話についてこられないことがないように、季節の話題や服の色など、話題を選んでくれていることが分かる。
ミシェルはその優しさに困惑した。
「あの、どうしてそんなに良くしてくださるのですか? 養子になったからといって、明後日には嫁ぐ身です。旦那様と奥様がお心を砕かれることもないかと存じますが」
ミシェルの言葉を聞いたアルベールが眉を下げる。フランシーヌは目を伏せ、どこか悲しそうだ。
自身の失言に気付いたミシェルは、慌てて言葉を続けた。
「申し訳ございません! 決して、お二人を嫌いというわけでは──」
「お父様とは呼んでくれないのか?」
「え?」
「そうよ、ミシェルちゃん。私も、お母様って呼ばれたいわ」
ミシェルはついぽかんと口を開けてしまって、慌てて手で隠した。
今、ミシェルは二人が望まない言葉を口にしてしまった筈だ。それなのに、どうしてこんなにも温かい言葉をくれるのか。ミシェルには理解することができない。
アルベールがミシェルに優しく微笑む。
「ミシェルさん──いや、ミシェルは、もう私達の娘になったんだ。むしろこちらの都合に巻き込んでしまったのだから、本当はミシェルが怒ったって良いんだよ」
フランシーヌも頷いた。
「そうよ。嫁ぐって言ったって、ここが実家になるのだもの。私はもっとミシェルちゃんと仲良くなりたいわ。クラリスちゃんも帰ってきたら、四人で仲良くできたら良いわね」
「そうだな。きっとクラリスもミシェルを気に入るだろう。あの子は可愛い娘を見るのが好きだから」
当然のように与えられる家族の優しさは、これまでミシェルが知らないものだった。この世界にあるということは知っていても、ミシェルには決して与えられることがないと思っていたものだった。
とっくの昔に諦めたそれが、ミシェルの心の傷を一つ、治していく。
「──……ありがとうございます。お父様、お母様」
頬が熱い。
優しさに応えることが、とても恥ずかしかった。
「まあ……! 貴方、ミシェルちゃんがお母様って!」
「ああ。この歳になって、こんなに愛らしい娘ができるとはな」
嬉しそうに笑い合う二人を見て、ミシェルはここにいて良いのだと実感する。
新しくできたミシェルの家族は、物語の中でしか与えられることがなかった家族の暖かさというものを、ミシェルに教えてくれるらしい。




