5章 ラシュレー侯爵家
ミシェルの返事を聞いたアルベールとフランシーヌは、ラファエルの申し出が受け入れられたことを我が事のように喜んだ。
二人が話している間に用意された養子縁組の書類をアルベールから渡されたミシェルは、名前を書く。オードランとは、書かなかった。
ただのミシェルと書いた名前に、ラシュレーの姓が付け足される。
「ミシェルちゃん。すぐにお嫁に行ってしまうのは寂しいけれど、これからよろしくね」
フランシーヌがミシェルを歓迎する。
ミシェルはその言葉に緊張した。これまで、ミシェルはそういった類いの言葉を受けて、散々な目に遭ってきたのだ。
「──よろしくお願いします」
思わず顔が引き攣ってしまったミシェルの背中を、ラファエルが子供を落ち着かせるような手つきで撫でる。
少しずつ解れていく身体に、ミシェルは内心で首を傾げた。
ラファエルの話がどこまで本当なのか分からない。そもそも信頼できる人なのかもまだ分からないのに、どうしてこんなに安心させられるのだろう。
ミシェルとラファエルの姿を微笑ましいものを見る目で見ていたアルベールが、でき上がった書類を丸めた。
「ミシェルさんは、今日は大変だったのではないかな? 部屋を用意させるから、我が家と思ってゆっくり過ごしてほしい」
「あ、ありがとうございます」
ミシェルが礼を言うと、アルベールはすぐに執事に指示を出した。控えていた使用人が何人かその場を離れていく。
「公爵殿のところには、いつから?」
「明日には迎えに来るつもりです」
「そうですか。……せっかく親子になったんだ。結婚した後も、たまに遊びにきなさい」
アルベールの言葉に、ミシェルはどう返したら良いのか分からない。
困惑しているうちに部屋の支度ができたようで、ミシェルは先に休むようにと言われてしまった。
「申し訳ございません」
「謝ることはないよ。これからよろしくね」
「本当にありがとうございます。よろしくお願いします」
ミシェルは改めて深く頭を下げて、ミシェルを案内するという侍女について部屋を出た。
ラシュレー侯爵邸は品の良い落ち着いた装飾で、そういったものに触れたことがないミシェルは廊下を歩くだけでも緊張した。
案内された客間は綺麗に整えられていた。
沸かされていた風呂に入って出てくると、着心地の良い夜着が用意されている。聞くと、駆け落ちをしたという令嬢のものであるらしい。
部屋には、食べやすい軽食が用意された。
食事をする気にはなれなかったが、オードラン伯爵家でアランに言われ続けた言葉が、いまだ呪いのようにミシェルに貼り付いている。食欲がなくても、手と口が勝手に目の前の食事を摂取していくのだ。
ミシェルは、そういうふうにできている。
食事を終えると、侍女がハーブティーを淹れて部屋を出ていった。
今日はゆっくりお休みくださいませ、という言葉が、怒濤のように過ぎていった一日をミシェルに思い出させる。
「……簡単に、屋敷を出られてしまったの」
誰も聞いていないのを良いことに、ミシェルはぽつりと溢した。
あんなにエマと一生懸命に立てた計画は成功しなかったのに、衝動的に窓から飛び出したら、そのまま屋敷の外に出られてしまった。二階から飛び降りて大きな怪我が無かったのは奇跡だが、少しの引っ掻き傷だけで、願いは叶ってしまったのだ。
ラファエルの優しさは、ミシェルには痛い。
今すぐエマに会いたかった。
「エマ」
その声はあまりに寂しく響いて、返事がない事実が胸に刺さる。
ここにエマはいない。だから返事がないのは当然のことだ。
「ごめんなさい」
謝っても届かないことは分かっているのに、それでも言わずにはいられなかった。
まだ信頼できるかは分からないが、幸せにするといってくれたラファエルのこと。
政略的なことがあるとはいえ、暖かく迎え入れてくれたラシュレー侯爵夫妻。
ここにエマがいたら、もっと素直に喜べたのに。
一度泣いてしまったからだろうか。これまでどんなに辛いことがあっても出てこなかった涙が、泣き方を思い出したように溢れてくる。
『良かったじゃないですか、ミシェル様。これまでの分も、幸せにならなきゃ駄目ですね!』
きっとエマならそう言って、ミシェルの涙を拭いてくれる。
ミシェルは夜着の袖口で涙を拭った。
聞こえてしまった幻聴は、少しもミシェルを責めていなくて。そのことが無性に悲しかった。
疲れている筈なのに全く眠くならず、ミシェルは侍女が淹れてくれたハーブティーを手に取る。安眠効果があるというそれは冷めてしまっていたが、ふわりと優しい花の香りがした。
ハーブティーを口にしたミシェルは、少しして猛烈に襲ってきた眠気に抗えず、曖昧な意識の中、ふらふらと寝台に潜り込んだ。
軽くて温かい布団が、あっという間にミシェルを眠りの中へと誘っていく。
深い眠りに落ちたミシェルは、翌日の朝まで目を覚まさなかった。




