5章 新たな縁談
ラファエルとミシェルが馬車に戻ると、従者が一人中で待っていた。
ラファエルと同じくらいの年齢らしいその従者は、ミシェルを見て嬉しそうな顔をして、ラファエルに声をかけた。
「──お疲れ様でした、ラファエル様。ラシュレー侯爵様より、この後のお時間を頂戴しております」
ラファエルはほっと息を吐いて、従者の隣に腰を下ろす。ミシェルも促されて、向かいの席に腰掛けた。
がたがたと、馬車が走り出す。
「助かった。ダミアン、こちらミシェル嬢だ。これからよろしく頼むよ」
「勿論です。従者のダミアンと申します。よろしくお願いいたします」
ダミアンと名乗った従者が、ミシェルに頭を下げた。ミシェルは自分の立場が分からず、どう返すべきか悩む。
オードラン伯爵令嬢でなくなったミシェルは、もう一市民でしかない。しかしラファエルの紹介の仕方は、貴族令嬢を紹介するときのものだ。
「よろしくお願いします……?」
ラファエルのミシェルへの態度は、先程アランの前とは全く違い、丁寧で親切だ。
結局ミシェルはどうするのが正しいか分からず、曖昧に軽く礼をした。
次に馬車が停まったのは、王城にほど近い、立派な貴族の屋敷の前だった。
歴史を感じさせる佇まいだが、決して寂れてはいない。丁寧に管理された屋敷と美しく整えられた庭が、家の力を感じさせる。
ラファエルが、ここはラシュレー侯爵邸だとミシェルに教えてくれた。
馬車を降りて案内された部屋には、ミシェルの親世代の夫婦がいて、困ったような笑顔でラファエルとミシェルを迎え入れた。
「この度は、私達の娘が大変ご迷惑をおかけしまして……どうお詫びをすれば良いか」
ラシュレー侯爵であるアルベールが深く頭を下げる。次いで、侯爵夫人のフランシーヌも同じくらい深く頭を下げた。
ラファエルが微笑みを浮かべて軽く手を振った。
「顔を上げてください。私も、クラリス嬢の気持ちは知っておりましたから……仕方のないことだと思っています」
「ですが、式はもう三日後ですし」
アルベールが手の甲で額に浮かんだ汗を拭く。
ラファエルがまずは座りましょうと言って、皆を応接ソファへと導いた。
使用人が紅茶を淹れて去っていく。一口飲んでほうと小さく息を吐いたラファエルが、口を開いた。
「今日は私から侯爵に頼みがあって参りました。彼女を、養子として迎え入れてはくれませんか」
「この娘を、ですか」
アルベールは、戸惑いを隠しきれていない表情でミシェルを見た。
ミシェルは突然の話に驚き、慌てて隣に座るラファエルの顔を窺う。しかしラファエルは、笑顔の仮面を少しも崩さない。
「ミシェル嬢です。オードラン伯爵の妹ですが、先程縁を切ってきました」
「オードラン伯爵家……あの夜会でデビューした令嬢ですか」
アルベールが何かを思い出したように言った。
ミシェルは、社交界デビューに失敗した夜会を思い出した。イザベルとリアーヌの声が、皆がミシェルに向けた視線が、恐ろしかった。
しかしラファエルは、何でもないというように言葉を続ける。
「ええ。悪評は全て作られたもので、その本質は、ただの愛らしい年頃の令嬢です。……そうすれば三日後は予定通りにできますし、侯爵にとっても悪い話ではないでしょう」
「それは、娘を許してくださると?」
ラファエルの微笑みは、アランに向けていたものよりも随分柔らかい。
アルベールは心底驚いたというように目を見張った。
「ええ。クラリス嬢と私は互いに情はありましたので、結婚すればそれなりに上手くやっていけると思っておりましたが……彼女がそれを望まなかったのですから、もう良いのです。愛し合う恋人達を引き裂くつもりはありません。侯爵も、よろしければもう彼女を許してさしあげてください」
「……寛大なお言葉、ありがとうございます」
アルベールがラファエルに謝辞を言う。フランシーヌが身を乗り出して、ミシェルに優しく微笑んだ。
「ミシェルちゃん、貴女は今日から私達の娘よ」
「そうだな。時間がないから、すぐにでも書類を作ってしまおう」
アルベールが部屋に控えていた従者を呼んで、ペンと紙を持ってくるように指示を出している。
ミシェルの話をしているのに、ミシェル一人が置いてきぼりだ。
「──公爵様。あの、どういうことでしょうか」
これまで黙って話を聞いていたミシェルが、おそるおそるラファエルに問いかける。
すると、口を開こうとしたラファエルよりも先に、アルベールが笑い声を上げた。
「ははは。……なんだ、公爵殿。説明して連れてきたのかと思ったら、何も言っていないのか。君も案外せっかちなのだね」
「からかわないでください……これから話しますから」
アルベールとフランシーヌが口を噤んで、ラファエルとミシェルを見守っている。
ミシェルはラファエルに向き直った。
ラファエルが座り直して、ミシェルの手を取る。
じっと瞳を覗き込まれて、ミシェルはその瞳の深さに吸い込まれて仕舞うような気がした。『夕暮れ空の君』と言われるのも分かる。まさに夕暮れのような色で、自身のあわいに押し込まれた感情の全てを見透かされているようだ。
深いその色が、少し怖い。
「──ミシェル嬢。私と結婚してください」
ミシェルは、はく、と息をした。
ラファエルの瞳は真剣そのもので、ミシェルはこれが冗談ではないのだと思い知らされる。
「私は三日後、王都の教会でラシュレー侯爵令嬢と結婚式を挙げる予定だったんだ。事業協力のための政略婚で……他国とも関わる事業だから、二家の確かな繋がりを示すためにも必要な婚姻だった。だけど、彼女は執事と駆け落ちしてしまって。行き先は把握しているけれど、愛し合う二人を引き裂く気にもなれなくて、困っていたんだ」
「駆け落ち、ですか?」
それで、アルベールとフランシーヌは最初からラファエルに対して低姿勢だったのか。
ラシュレー侯爵家といえば、ネフティス王国の建国から続く名家だ。娘の駆け落ちによってフェリエ公爵家との事業提携が失敗したとあっては、大変なスキャンダルだ。
ミシェルは事情を理解して、自分に課せられた立場に気付く。
「君を見つけたとき、運命だと思った。私達を助けてほしい」
ラファエルのあわいの中にミシェルが映っている。
町娘のような服を着た、頼りない姿だ。
「そんな……! 私なんかにそんな大役──」
「大丈夫。夜会での君の振る舞いはとても素晴らしかった」
ラファエルが、ミシェルの手の甲にそっと口付けを落とす。
「私の手で、君を幸せにしたいんだ」
その言葉は、傷だらけのミシェルの心に沁みた。もはや痛みすら感じるその刺激はあまりに甘美で、これまでミシェルが築いてきた高い壁を軽々と越えてくる。
ラファエルの瞳の奥にあるのは恋愛の熱情ではなかった。どこか寂しそうな表情に、ミシェルは縋られているかのような錯覚を覚える。
「──……分かり、ました。これからよろしくお願いします」
最初から、拒絶などできるはずがなかったのだ。




