5章 3度目の買い取り先
ミシェルがラファエルに手を繋がれたまま塔を降りると、入り口の近くに立派な馬車が停まっていた。側には御者と従者だけでなく、護衛らしい何人かの騎士もついている。
ラファエルが騎士と従者に何事かを伝えると、何人かが離れてどこかへと向かっていく。
「先触れを出さなければね」
ラファエルがミシェルの手を引いて、当然のように馬車の中へとエスコートする。ミシェルは実践するのは初めての作法を思い出しながら、おずおずと馬車に乗り込んだ。
二人で乗るには広すぎるくらいの馬車に、向かい合って座る。扉を閉めてようやくミシェルが逃げないと確信したのか、ラファエルはそっとミシェルの手を離した。
「……先触れ、でございますか?」
「そう。このまま攫っていくわけにもいかない」
そう言ったきり、ラファエルは黙り込んで何事かを考えているようだった。ミシェルは座り心地が良過ぎて落ち着かない馬車の中で、身体を固くする。
ラファエルの口ぶりからして、向かっているのはオードラン伯爵邸に違いない。
ミシェルが屋敷を抜け出したことを、アランはもう気付いているのだろうか。気付いているのなら、どんな言葉を浴びせられるのだろう。
いくら極限の状況だったからといって、やはり初対面の男性に命を預けるというのは浅慮であったかもしれない。
ミシェルが悶々と考えているうちに、馬車はオードラン伯爵邸に辿り着いてしまった。先に降りたラファエルが、中にいるミシェルに手を差し出す。
令嬢扱いに慣れていないミシェルは、困惑しながらも、その手を頼りにゆっくりと馬車から降りた。
「いらっしゃいませ、フェリエ公爵様。応接室でお待ちくださいませ。急なことでしたので、主人が席を外しておりまして──」
執事が礼をしてラファエルを迎える。流れるような挨拶の途中でミシェルを見つけた執事は、驚愕の表情で息を呑んだ。
「ああ。無理を言ったのはこちらだから構わないよ。……それでは、応接室に案内を頼めるかな」
「ええ。はい、すぐに」
執事は気を取り直して、来客応対用の微笑みを貼り付け、きびきびとラファエルを案内する。ミシェルはラファエルに手を引かれながら、すれ違う使用人達の注目を集めているのを自覚した。
訓練された使用人達は声には出さないが、明らかに動揺している。おそらく、中にはミシェルが部屋から逃げたことが知れて、捜索をさせられていた者もいるのだろう。
応接室のソファに、ラファエルと並んで腰掛ける。
手は離されることなくしっかりと握られていた。そこから伝わる熱が、今すぐここから逃げ出したくて仕方がないミシェルを繋ぎ止める。
少ししてアランがやってきた。急いで衣装を整えてきたらしく、胸元のポケットチーフが僅かに縒れている。
アランはラファエルの向かい側にあるソファの前に立ち、探るような視線をラファエルに向けた。
「──はじめまして、フェリエ公爵殿。オードラン伯爵のアランと申します。本日はどのようなご用件で──……ミシェル!? お前、何をしている」
ミシェルがびくりと肩を揺らす。ラファエルが気遣わしげにちらりとミシェルを見た。
すぐに視線をアランに戻したラファエルは、アランに向けて神々しいほどに美しい笑顔を浮かべる。
「はじめまして、オードラン伯爵。急なことですが、今日は折り入って商談をさせてもらいたくて」
「商談、でございますか?」
ラファエルがアランに座るよう促す。
アランはミシェルを気にしながらも、公爵であるラファエルの話を遮るわけにもいかず、黙って腰を下ろした。
「──この娘を私に譲ってはくれませんか」
ラファエルは表情を一切崩さないままそう切り出した。
笑顔は仮面だ。まして公爵という立場でその仮面を多用しているラファエルのそれは、少しも崩れることはない。
ミシェルは現在の状況を正しく把握できないまま、ソファに浅く腰掛けて硬直していた。右手は痛いほど強く握られている。
アランがちらりとミシェルに冷ややかな目を向ける。それから、直前の冷たさが嘘のように外行きの笑顔を浮かべてラファエルを見た。
「ですが、ミシェルは三日後にはアンドレ伯爵家に嫁に行くことになっております。いくら公爵様とはいえ、直前でそのような無茶は──」
「御託はいりません。いくらですか?」
アランの言葉をばっさりと途中で切ったラファエルが、すうっと目を細めた。
笑顔が崩れないのがかえって怖い。ラファエルはミシェルが嫁入りという形で『売却』されようとしていることを理解しているのだ。
アランは言いにくそうにもごもごと口を動かして、視線を逸らす。しかし貧乏伯爵が王国の五大貴族のうちの一人に歯向かうことなどできるはずもなく、早々に諦めたようだ。
「……金貨千枚です」
ラファエルはそれを聞いて、心から嬉しそうに笑った。
ミシェルは予想以上の金額に驚く。ラファエルが何故そんな顔をしていられるのか、ミシェルにはさっぱり分からなかった。
「そうですか……では私はその倍。いや、三倍出しましょう」
ミシェルははっと隣に座るラファエルの横顔を見上げた。
金貨千枚といえば、男爵家のタウンハウスが一軒新たに建てられるくらいの金額だ。それの三倍。最近持ち直しているとはいえ、先代であるミシェルの父の代よりずっと前から貧乏であったオードラン伯爵家の全財産よりも多いかもしれない。
アランは驚いた顔を隠すこともできずに口を開く。
「……よろしいのですか?」
「その代わり、この娘の今後に、その生死を含め一切関与しないと約束してもらえますか? 叶うなら、今夜にでもここに金貨三千枚を持って来させましょう」
ラファエルの言葉を聞いて、アランは全てを理解したように楽しそうな顔をした。
生死を含めミシェルの今後に一切口を出さない。その条件が必要になる身売り話など、『奴隷』か『犯罪の片棒を担がされる』かのどちらかだと相場が決まっている。
「ふ、ふふ。そういうことですか。──ええ、構いません。どうぞ、公爵様のお好きにお使いください」
ミシェルは絶望した。
やはりさっき、ラファエルに止められても構わず、塔から飛び降りてしまえばよかった。初対面の人間を信じるものではない。アンドレ伯爵──嗜虐趣味があるという変態の嫁になるのと、どちらがマシだっただろう。
塔の上でのラファエルの言葉を、信じていても良いのだろうか。
いずれにせよ、ラファエルの目を盗んで逃げても、公爵家の力があればすぐにミシェルを見つけるだろう。もう覚悟を決めるしかないのだ。
「では契約成立ということで。この娘はこのまま連れて帰ります。ほら、挨拶は」
ラファエルが立ち上がり、ミシェルの手を離す。そして瞳が笑っていない笑顔で、ミシェルの背を軽く押した。
そうされてしまっては、ミシェルも思ってもいない言葉を言うしかない。
「──お世話になりました」
「今日を限りにお前は私の妹ではない。そのことを、肝に銘じておきなさい。オードランの名前も、名乗ることは禁ずる」
「……はい、分かりました。失礼します」
この家に、ミシェルの大切なものは何一つない。
ミシェルはまたラファエルに手を引かれて、オードラン伯爵邸を後にした。




