4章 白薔薇と後悔と未来
ミシェルが死んだら、エマに会えるだろうか。そうしたら何度でも思いきり謝って、今度こそ何のしがらみもなく笑い合いたい。
落ちていく、と感じたそのとき、ミシェルの腰が何者かに強く捕らえられた。
「きゃ……っ!」
はっと目を開けた先で、真っ白な薔薇の花が宙を舞っている。花束だったらしいそれは解けて、青い空にやけにはっきりと映し出された。
硬い床に尻餅をつく。
痛みが、ミシェルにまだ命があるのだと強く感じさせる。
「はあ……、はあっ」
ミシェルの腰を捕らえたのは、しっかりとした男性の腕だった。片手で引き寄せられた身体には、今は反対の腕も回されている。
背後からぎゅうと強く抱き締められて、知らぬ間に解けていた髪に荒い息がかかった。ミシェルを引き止めたこの人は、走ってここまで上ってきたのだろう。
「申し訳ございません!」
慌てて身体を引き離そうとするが、男性はミシェルを離してくれない。それどころか、逃がさないというように抱き締める腕の力が強まった。
「間に合って良かった……」
「本当に、申し訳──」
重ねて謝罪をしようとするミシェルの右手を握った男性は、一度立ち上がってミシェルの正面に座り直した。手を離してくれないのは、ミシェルがまた飛び降りないようにするためだろうか。
男性はミシェルの瞳を覗き込んで、口を開く。
「君は何をしているんだ!? 死のうだなんて、簡単に考えるものではない!」
男性から出た言葉は、強い叱責だった。
ミシェルは咄嗟に身体を縮める。これまで、何人もの人間が声を荒げるのを聞いてきた。
攻撃される瞬間を覚悟して、ぎゅっと目を瞑る。
しかし、いつまで経っても痛みは与えられなかった。
「──……え?」
ゆっくりと窺うように目を開いたミシェルの前で、男性は予想外の反応だというように目を丸くしている。
その瞳が宝石のような紫色で、ミシェルははっとした。
「……私は、命を助けた女性に手を上げるつもりはないよ」
苦笑する、あまりに美しい顔。日の光が照らすプラチナブロンド。
この男性をミシェルは知っていた。
イザベルとリアーヌが話しているのを聞いたことがある。この前の夜会で、遠くからその姿を見た。
この人は、フェリエ公爵であるラファエル・レミ・フェリエだ。
慌てて立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
今更身体が震えているのは、生への執着故だろうか。もうエマはミシェルのせいでいないというのに、なんて浅ましい。
ミシェルは自由な左手でスカートを軽く摘んで、相手への敬意を示した。
「ご、ご迷惑をお掛けいたしました、フェリエ公爵様。その……離して、いただけますか」
「……駄目だよ。離したら、君はまた死のうとするでしょう? 分かっていて、そんなことはできない。それに君……そんな格好をしているけれど、私を知っているということは貴族だね」
「申し訳──」
「謝らなくて良いから。だから、私に君のことを話してくれないか? こんなところで会ったのも何かの縁だ。力になれることがあるかもしれない」
ミシェルは目を伏せた。
「私の話など、お耳汚しになります」
「そんなことはない。私だって、自殺をしようとしているところに行き合ったのだから、このまま放っておきたくはない。……話してくれないなら、家を調べて連れていくけれど」
ラファエルは本気だろう。貴族令嬢が自殺をしようとしていたら、身柄を確保して、親元に送り届ける。令嬢は親の持ち物だという性質がある貴族にとって、当然のことだ。
しかし、ミシェルはそれだけは嫌だった。
「……話します」
連れ帰られたら、今度こそあの家を出ることはできないだろう。ミシェルが自殺をしようとしたと知ったら、アランはそれすらできないように全ての手段を封じるに違いない。
そうしたら、エマを追いかけることができなくなってしまう。
ミシェルは自己紹介をして、ぽつぽつとこれまでのことを話し始めた。
四歳のときに、母親が事故で亡くなったこと。
六歳のときに、父親に売られたこと。
そこにいた姉妹に『おもちゃ』として扱われていたこと。
十三歳のときに、兄に買い戻されたこと。
寝る間もなく令嬢としての教育を詰め込まれたこと。
十六歳で社交界デビューをして、姉妹に悪評を広められたこと。
価値が落ちたミシェルを、兄が恐ろしい貴族に売ろうとしていること。
信頼する侍女と逃げ出そうとして失敗し、侍女が森に捨てられてしまったこと。
輿入れまで、あと三日しかないこと。
エマにも過去のことは話したことがなかった。もしも話していたら、泣いて怒ってくれただろうか。
「なんという……」
ラファエルは息を呑んで、ミシェルの瞳をじっと見つめていた。
今、ミシェルの瞳に浮かんでいる感情は何だろう。諦めか、怒りか、悲しみか。
「お願いです、公爵様。私の侍女に償うためにも、ここであったことは、忘れてくださいませんか」
「それはできない」
ミシェルの心からの願いを、ラファエルははっきりと断った。代わりにこれまで以上にミシェルの手を握る力を強める。
これは、逃がさないということだろうか。
「その侍女は、君が命を捨てて喜ぶような人なの?」
「違います! エマは──」
「そうだろう。それならば、君が死ぬのは間違っている。せっかく屋敷を出ることができたというのに」
ラファエルが言っていることは正しい。
しかしその正しさは、今のミシェルには痛かった。
エマがいない世界で、ミシェルだけが新しい幸せを探すなんて考えられない。生きていくための方法だって、一つも思い付きはしない。
いつだってエマがいたからミシェルは立っていられたのだ。
ミシェルがそう言うと、ラファエルはしばらく困ったような顔をして、それから何かを覚悟したのか、突然くしゃりと破顔した。
「死ぬつもりなら、その命、私に預けてくれ」
「え?」
驚いて引いたミシェルの右手を、ラファエルの左手が追いかける。
「悪いようにはしない。本当に君が幸せになれないかどうか、私が試してみよう」
「ですが──」
エマを追いかけたい。一人で生きていたくない。
それはミシェルの願いだ。
それでは、エマの願いは?
思い出すのは、いつだってミシェルの分まで憤ってくれた、感情豊かなエマの姿だ。
──『ちょっと旦那様に抗議して参ります』
──『ミシェル様、治療する前に何してるんですか!?』
──『私だって、ミシェル様には自由になって欲しいんです。一緒に行きたいお店も、たくさんあるんですよ』
──『ミシェル様、逃げましょう。あんなところに嫁いでは駄目です!』
エマはいつだって、ミシェルの幸せを願っていた。
「あ、あああ……」
漏れ出た声は、言葉にならない。
いつからか忘れてしまっていた涙が、次々に溢れ出していた。頬を流れ落ちていく熱が、エマの代わりに、逃げるなとミシェルを叱っているようだ。
気付けばミシェルはラファエルの腕の中にいた。ほとんど初対面にも拘らず、不思議と不快感はない。
ミシェルは温かな腕の中で、ただ涙を流し続けていた。




