4章 ミシェルの後悔
ミシェルはエマを巻き込んだことを後悔していた。
ここから逃げ出すにしても、ミシェル一人で実行するべきだったのだ。優しく差し伸べられる手があったからといって、安易に取ってはいけなかった。
それとも、どんな目に遭ったとしても、素直にアランの言う先に嫁いでいれば良かったのかもしれない。
そうすれば、エマだけは助かったのに。
本当は、この仕事を辞めてもエマが働ける場所はあったのだ。
ミシェルがいなければ、エマは友人のつてを頼って下町で楽しく仕事をしていただろう。客として出会った男性と穏やかな恋をしたりして、幸せになっていたかもしれない。
その可能性は、ミシェルのせいで失われてしまった。
今更どうしようもない後悔ばかりがミシェルの中に溜まっていく。ミシェルの小さな身体ではもう受け止めきれないほど、全てがどうしようもない痛みとして押し寄せていた。
こんなことになるのなら、ミシェルなど最初からいなければ良かったのに──
「ごめんなさい。エマ……」
どうにかして、少しでもエマの近くに行きたかった。
窓に目をやると、眩しい朝日が目に刺さる。
もう、どうでも良いと思った。
どうせ三日後にはアンドレ伯爵に嫁がされるのだ。そうしたら、ミシェルなどすぐ好きなようにされてしまうに違いない。
それがアランの望みならば、絶対に叶えてなんかやらない。
ミシェルは窓の鍵を開けた。外開きの窓は大きく開き、ミシェルの身体くらい簡単に通れそうだ。
屋敷の二階から庭園までは距離があったが、その高さに怯んだのは一瞬だった。
「──さようなら」
ミシェルは何も持たず、身一つで窓から飛び降りた。
アランは、エマがいなければミシェルは反抗せずに部屋で大人しくしていると思ったのだろう。まさか窓から飛び降りるなど考えもしないに違いない。
それは違う。
エマがいたから、ミシェルはこの屋敷で大人しくしていたのだ。エマのおかげで、こんな場所でも呼吸ができた。
エマがいなければ、こんな生活はとっくに破綻していた。
庭の警備は手薄だった。
植え込みに落ちたことで、ミシェルは足に引っ掻き傷をいくつか作った程度の怪我しかしなかった。
エマから借りた町娘風の服のままだったため、裏口も呼び止められることなく通り過ぎることができた。
こんなに簡単だなんて、思いもしなかった。
そもそも使用人用の裏口は、入るのには厳しいが、出るのにはそうではない。そんな簡単なことに気付かなかったのは、ミシェルの落ち度だ。
見上げると、遠くに王城が見える。ミシェルの家から見た王城と反対側に、エマがいる森がある筈だ。
ミシェルは走り出した。
若い女性が一人急いでいたところで、おかしなことなどない。誰にも呼び止められないまま、ミシェルは市民街を通り過ぎ、一時間もしないうちに王都の門の前にいた。
門には衛兵がいて、出る人と入る人の身分を確認している。ミシェルに身分を証明できるものは何もない。
森に行くことはできそうになかった。
今から行ってもミシェルにできることは何もなく、間に合う可能性も低いだろう。
「……ここで、終わりね」
ミシェルとエマの計画がアランに気付かれていたのだから、市民街にエマが借りた部屋も押さえられているだろう。
そうなってしまえば、ミシェルに行く場所などない。
エマがいればオードラン伯爵邸の中でも生きていられたが、一人ではとても戻れない。
空を見上げると、太陽が真上にあった。
眩しくて目を細めた先に、高い塔が見える。
「あれは」
エマと一緒に逃亡計画を立てていたとき、地図で見た塔だ。確か、王都で一番高い塔で、国民には観光のために無料で公開されているらしい。王都の中が一望できるのだと、家庭教師が言っていたことを思い出す。
ミシェルは吸い寄せられるようにふらふらと塔に向かった。
入り口には、誰もいなかった。
そもそも今日は平日で、ほとんどの人が仕事をしている時間だ。王都にはきらびやかな場所も多く、眺望を楽しむにしてもここよりも王城の公開スペースの方が人気があるのだろう。
誰にも会わないまま、塔の最上階に辿り着く。
ミシェルの目には初めて見る華やかな王都ではなく、塀の外にある深い森しか映らなかった。
あのどこかに、エマがいるのだろう。『捨ててきた』と言ったアランが、入り口付近で引き返したとは考えにくい。きっと、奥の方に連れて行かれたのだ。
ミシェルは唇を噛み締めた。
誘われるようにふらふらと塔の鋸壁によじ登り、腰を下ろす。
日を浴びてなおその深さを示す森の木々が、ざわざわと風に揺れて不吉な陰を落としていた。
「私なんて、いなければ……」
イザベルとリアーヌの『おもちゃ』であった自分。
アランの『商品』であった自分。
どちらも、大した価値がないものに感じた。
唯一大切だったエマの『仲間』であった自分は、もうなくしてしまった。
「ごめんなさい、エマ。私……もう、疲れてしまったわ」
エマはミシェルに、幸せになってほしいと言ってくれた。
それも、もう無理だ。
誘うように強い風が吹く。不思議と恐怖は感じなかった。
両目をゆっくりと閉じたミシェルは、ふわりと身体を宙に投げ出した。




