4章 エマの懇願と希望
アンドレ伯爵の見送りを終えたアランが応接室に戻ってくる。アランはミシェルの姿を見て、不快げに眉間に皺を寄せた。
「お前は、もう少し愛らしく振る舞うことを覚えなさい」
ミシェルは思いきってアランに尋ねることにした。
「お兄様。縁談って、どういうことですか? 私は、あの方と──」
「そうだ。社交界で散々な評判のお前だが、アンドレ伯爵殿がそれでも良いと仰ってな。当初の計画とは大分変わってしまったが、こちらとしても、まあ、悪くはない話だ」
アランはそう言って目を細めた。ミシェルが黙って聞いていることを確認して、話を続ける。
「二週間後の土の曜日に、輿入れすることになっている。あちらはもう五人目の奥方になるから、挙式はしなくて良いそうだ。これからは、夫となる伯爵殿の言うことを良くききなさい」
言うだけ言って、アランは応接室を出ていった。
代わりにまだ顔色が悪いエマが、ミシェルの側に寄ってくる。人前で仲の良いところを見せてはいけないとずっと言い聞かせてきたにも拘らず、エマはミシェルに話しかけた。
「──ミシェル様、お部屋に戻りましょう」
「え、ええ」
様子がおかしいエマが心配になったミシェルは、エマに従うことにした。
使用人達の囁き声に気付かないふりをして、自室に戻って扉を閉める。瞬間、エマが眼鏡の奥の瞳を潤ませて、まだ立ったままでいるミシェルに詰め寄った。
「ミシェル様、逃げましょう。あんなところに嫁いでは駄目です!」
その鬼気迫る表情に、ミシェルはアンドレ伯爵に触れられた不快感をまた思い出した。
嫌な感覚だった。今すぐ忘れてしまいたい。
「……エマは、伯爵様のことを何か知っているの?」
ミシェルの質問に、エマが頷く。
「はい。ミシェル様がご存知ではないのが不思議なくらい有名な人です。ものすごい資産家らしいですが、若い女性……特に十代の反抗的な娘が好きだとかで、妻を何人も娶っているんです。うち二人は亡くなっていて、残りの二人も行方が知れていません。伯爵は妻を亡くしてしまったと毎回悲しむ素振りをしているようですが──亡くなられた奥方の身体には、原因不明の傷がたくさんあったとか」
「それって」
エマは、このオードラン伯爵家で働き始める前は、男爵家の令嬢として生活していた。社交界デビューは済んでいるそうで、下級貴族や下町には連絡をとる友達もいる。だからそういった噂話も耳に入ってくるのだろう。
どういう意味なのかは、それ以上聞かなくても分かった。
確証こそないものの、アンドレ伯爵は妻を虐待していたのだ。彼が殺したのか、妻が自ら命を絶ったのかは分からないが、いずれにせよまともではないことは確かだ。
資産家ということは、証拠を握りつぶしているのかもしれない。
ミシェルは指先から温度が失われていくのを感じた。
「ミシェル様。いくらなんでも、こんなのあんまりです! 私はこんなことのために今日までミシェル様にお仕えしてきたわけじゃないですし、ミシェル様だって、あんな変態の玩具になるために努力されてきたわけじゃありませんっ!!」
「エマ……」
怖かった。
この先に待っているかもしれない未来も、そんな場所に妹であるミシェルを売ろうと決めたアランも、怖くて仕方ない。
望まない結婚をさせられるであろうことは想像していた。
しかし、こんな身売り結婚、あんまりではないか。
「ミシェル様。お願いですから、うんと言ってください!」
エマはついに眼鏡を外して泣き出してしまった。
ミシェルはそんなエマの身体をそっと抱き締める。人の温もりが心に染みた。
エマはミシェルを大切に思ってくれている。服に染み込んでいく涙が、何よりの証拠だった。
その思いに応えるためにも、ミシェルは諦めるわけにはいかない。
「──……ええ、分かったわ。一緒に、ここから逃げましょう」
「ミシェル様!」
「だから、泣かないで。まだ二週間もあるわ。失敗しないように、しっかり計画を練るの」
ミシェルの腕の中で、エマは何度も頷いた。
ミシェルより歳上で、いつも支えてくれるしっかりした侍女で、唯一の仲間だと思って頼りにしていたエマも、まだ若い女性なのだ。
エマの人生のためにも、ミシェルはこれ以上ここにいるわけにはいかない。
ミシェルはエマと共に、逃亡の作戦を立てることにした。この先平民としての生活をすることになっても構わない。
今度こそ、こんな場所から逃げ出すのだ。
「一週間もあれば、私の名義で市民街に部屋を借りることはできます。貴族令嬢が行方不明となれば王都の門はすぐに人が配置されるでしょうから、まずそこに隠れて警備が手薄になるのを待ちましょう」
「そうね。その方が安全だわ。……あ、私、市民街に馴染むような服はもっていないのだけれど」
「大丈夫です! 私の服をお貸ししますから」
エマがそう言って、涙を拭って赤くなった目で笑った。
ミシェルはエマのその顔を見て、堪らない気持ちになる。こんなに大切な侍女を泣かせて、これまで何をしていたのか。できることは、実はもっとあったのかもしれない。
ミシェルはふと、少し前に家庭教師から習ったことを思い出した。
「──もし上手く逃げられたら、ベリンダ共和国に行きましょうか」
ベリンダ共和国は独立した島国で、多くの国との交易によって栄えているらしい。
その影響もあり、たくさんの移民が普通に暮らしている土地だ。商売に各国の言語は必要不可欠であり、外国語を扱える人間は、それだけでかなり重宝されるそうだ。
そのときにはミシェルには縁遠い土地だと思ったが、全く知らない場所で新しい人生を始めるには、良いかもしれない。
ミシェルだけなら修道院に入っても構わないのだが、エマまで連れていくことは憚られた。それでもエマと離れるなど、今のミシェルには考えられない。
「ベリンダですか。良いですね!」
エマが笑顔で頷き、机の上に王都の地図を広げる。
オードラン伯爵邸と、王都の門と、市民街の中心に印をつけていく。
家庭教師が授業のために持ってきた王都の地図は、建物が絵で示されていて、非常に分かりやすかった。まさか逃亡計画のために使うとは、思ってもいなかったが。
ミシェルは屋敷の外を歩いたことがない。バルテレミー伯爵家でもオードラン伯爵家でも、外出は禁止されていたからだ。
ミシェルはその分まで、必死で地図と向き合った。
有名な場所は授業で習った。王城、歴史のある教会、繁華街、遺跡。王都をぐるっと丸く囲う防壁と、かつては見張台としても使われていた高い塔。
アランが立てたミシェルの無理な教育計画のためにこれまで苦労はしてきたが、家庭教師達は皆ミシェルに教えることに熱心な、良い先生だった。
ミシェルも学ぶことは好きだったので、授業自体はとても楽しかったのだ。
社交界デビューに失敗してから、家庭教師による授業も全てなくなってしまった。皆、元気にしているだろうか。
「──きっと成功させましょう」
ミシェルは目を閉じて、この先の楽しい日々を想像した。
今度こそ、絶対に成功させる。
ミシェルはエマと視線を合わせ、互いに覚悟を決めたのだった。




