4章 望まない縁談
それから一週間、ミシェルは自分の部屋の中で過ごした。
食事もエマに運んでもらい、どうしても部屋から出る必要があるときもアランに会わないように細心の注意を払った。
そんな生活は息苦しくはあったが、同時にとても楽だった。
この部屋にいれば、誰にも傷付けられることはない。そんな安心感が、少しずつミシェルの心を回復させていった。
エマは夜会の次の日の朝、ミシェルの背中に痣を見つけてから、よりアランへの不信感を強めたようだ。これまで以上にミシェルの側にいて、過保護なくらい守ろうとしてくれている。
申し訳ないと思いながらも、そんな扱いをされることがくすぐったかった。大切に思われていると実感することは、なんて幸せなのだろう。
そんなつかの間の平穏は、突然部屋にやってきた執事によって壊された。
「──失礼いたします。今から一時間後、お客様がいらっしゃいますので、着替えて応接室へお越しになるようにとのことです」
それだけ言ってすぐに戻っていく執事を見送って、ミシェルは小さく溜息を吐いた。
エマが首を傾げている。
「ミシェル様にお客様ですか?」
「ええ。そのようね」
「一時間しかないのでしたら、すぐにお支度をされないと。ドレスをお持ちしますね」
エマが慌てた様子でクローゼットを開け、来客対応に相応しい、それなりに見られるドレスを探している。
エマが持ってきたのは、ナタリアから貰ったドレスを手直しした青いドレスだった。胸元のレースが駄目になっていたものを、エマが他のドレスから持ってきたレースで直してくれたため、見た目には問題がないものだ。
ドレスに着替え、髪を整え、化粧をする。靴はデビュタントのために買ってもらったものしかサイズが丁度良いものがなかったので、それを履いた。
支度が終わると、丁度執事から言われた時間だった。
ミシェルはエマに部屋にいるようにと伝えたが、エマが首を横に振る。
「今日は来客なのですから、侍女が同室してもおかしくありません。連れていってください」
「でも」
「大丈夫です。ちゃんと黙ってます」
ミシェルはその言葉を信じることにした。正直なところ、突然の呼び出しにミシェルも不安だったのだ。
自室を出て、応接室へと向かう。
扉を軽く数回叩くと、アランが入室の許可を出した。
エマが開いてくれた扉から応接室の中が見える。
そこにいたのは、アランと、見たことのない貴族らしい男性だ。男性は四十歳くらいのようだが、バルテレミー伯爵よりも随分と落ち着きがない印象だ。
ミシェルはゆっくりと室内に足を踏み入れる。エマがミシェルの側を離れて、他の使用人に混ざって壁際に控えた。
アランはミシェルの顔を見ても表情を変えず、淡々と事実を口にした。
「──ミシェル。お前の縁談が決まったよ」
「縁談、ですか?」
ミシェルははっともう一人の男性に目を向けた。貴族だろうが、面識はない。
「そう。こちらにいるアンドレ伯爵が、お前を貰ってくれるそうだ。良かったな、ミシェル」
壁際から息を呑む音が聞こえた気がした。きっとエマだろう。
ミシェルはその音を誤魔化すように、アンドレ伯爵に向き直った。軽く膝を折って、敬意を示す。
結婚相手というよりも、父親といって良いくらいの年齢だ。ねっとりとした視線が、品定めをするようにミシェルの足の先から頭の先まで絡みつく。正面から初めて向けられる類いの視線に、ミシェルは居心地の悪さを感じた。
しかし刷り込まれた礼儀作法はこんなときでも正しく機能するようで、ミシェルは無意識に微笑みを浮かべていた。
「……はじめまして。ミシェルと申します」
「ミシェル、そちらに座りなさい」
アランがアンドレ伯爵が座っている隣を手で示した。
嫌だと思ったが拒否できる筈もなく、ミシェルはアランの鋭い視線を受けて素直に腰を下ろした。
「失礼いたします」
ミシェルが控えめに微笑んで言うと、アンドレ伯爵は口角を上げる。おもむろにそのふくよかな手が持ち上げられたと思うと、ミシェルの小さな右手を覆うように重ねられた。
その手がしっとりと汗ばんでいて、ぞくりとする。他人の肌を初めて不快だと感じた。
「いかがでしょうか、伯爵」
アランが口角を上げて言う。アンドレ伯爵は、満足げにミシェルの手を撫で回した。
「夜会のときにも思ったが、本当に美しいお嬢様だ」
「そうでしょう、そこだけは自慢の妹なのですよ」
「随分気が強いとのことだが、私はそういう子の方が好みでね。その方が躾け甲斐があるだろう? 貧乏神が憑いているなどという話もあるが、どうせそう長くもたないのだから変わらんよ」
ミシェルはさり気なくアンドレ伯爵の手から逃れようと、ドレスの広がる布を直す素振りをした。しかし離れたと思った手は、代わりにミシェルの腿の上に乗る。
思わず上げた小さな悲鳴に、アランが厳しい目を向けた。
「──お気に召していただけて良かったです。それでは、二週間後の土の曜日に」
「ああ。そのときに金を持ってこよう」
アンドレ伯爵が立ち上がり、そのままミシェルを抱き寄せようと腕を伸ばした。
眩暈がするほどの不快感を感じていたミシェルは、アンドレ伯爵の腕に気付かないふりをして、そっと身体を引いて逃れる。
「お待ちしております」
アランがアンドレ伯爵を見送りに応接室を出ていった。使用人達も次々に部屋の片付けを始める。
そんな中、エマだけが壁際に立ったままじっとしている。
ミシェルが不思議に思い表情を窺うと、エマは真っ青な顔で唇を引き結んでいた。




