3章 アランの怒り
玄関ホールに迎えはいない。
エマは迎えに出ると言ってくれたが、周囲から仲の良い主従だと思われてしまわないようにと、ミシェルが出てこないように頼んているのだ。
ミシェルは一人で階段を上り、自室の扉を開く。
「おかえりなさい、ミシェル様。早かったですね。それで、どうでしたか?」
「……ただいま、エマ。待っていてくれてありがとう」
ミシェルの帰りを待っていたエマが、ぱっと立ち上がってミシェルを部屋の中へと促す。椅子に座ると、すぐに果実水が差し出された。
ミシェルはその優しさに甘えて、ゆっくりと冷たい果実水を口に含んだ。僅かな酸味が、夜会で絡みついていた視線からやっと自由にしてくれたような気がする。
ほうっと息を吐くと、様子を窺っていたエマの表情が暗くなる。
「──もしかして、上手くいかなかったんですか?」
「ええ。でも、先にお風呂にしましょう。お兄様達が帰ってきたら、そんな時間もいただけないでしょうから」
「……分かりました」
エマは浴室の用意をしてくれていて、ミシェルはすぐに風呂に入ることができた。手早く済ませて、夜着ではなく、楽な部屋着に着替える。どうせアランに呼ばれるに決まっているのだ。
そしてミシェルは、エマに夜会であったことを話した。
「せっかく綺麗にして出かけられたのに……その双子、すっごい性格悪いですね!? 社交界での戦い方をよく分かってるんですよ。その人達の被害者、絶対ミシェル様の他にもいますよ!」
エマが顔を真っ赤にして怒ってくれる。それだけで、ミシェルは救われた心地がした。
今思い出せば、どうにかして対抗することができたのかもしれない。あのときはイザベルとリアーヌに久し振りに会って、気が動転していた。慣れない人混みであったこともあって、思うように言葉が出てこなかった。
「そうかもしれないわ。でも……私には、もうまともな縁談は来ないでしょうね」
「そんな……!!」
あの夜会で、イザベルとリアーヌは、ミシェルを性格が悪く貧乏神に憑かれていると主張した。
本来であれば根拠のないことだと言える筈のその主張は、イザベルとリアーヌが誰が見ても分かりやすく被害者を演じたことによって、信頼性が増した。
まして、ミシェルはデビュタントの中でも目立っていた。
他の令嬢達は親と共に社交の場に顔を出したことがあったようだが、ミシェルは一度もそのようなことをしていない。つまり、あの会場の中で、イザベルとリアーヌだけがミシェルを知っていたのだ。
二人の主張は、今夜の内に事実として社交界に広まるだろう。
「お兄様が、きっととてもお怒りになるわ。エマ、今日はもう下がりなさい」
「ですが!」
「お願い。私は大丈夫だから」
ミシェルがアランに何かされたら、エマは黙って見ていることはできないだろう。たとえ雇い主であっても、意見してしまうに違いない。
エマには被害が及ばないようにしたかった。
エマは何かを言いかけて開いた口をぎゅっと結んで、目を伏せる。こういうときのミシェルが頑固であることを知っているのだ。
「分かりました。──また明日。おやすみなさいませ」
「おやすみ、エマ」
ミシェルが小さく手を振ると、エマは耐えきれないというように表情を歪めて部屋を出ていった。
そのとき、階下からがたがたと物音が聞こえてくる。
アランとナタリアが帰ってきたのだ。
「──ミシェル! サロンに来なさい!」
アランの怒鳴り声が屋敷に響く。
ミシェルはぎゅっと目を閉じた。
行きたくないが、行かないわけにはいかない。重い足を引き摺るようにして、ミシェルは自室を出る。
扉が閉まる音が、いやに大きく聞こえた。
サロンには最低限の明かりしかついておらず、薄暗い室内はそれだけで不気味だ。
おずおずと入室したミシェルの姿を見て、ソファに座っていたアランが立ち上がる。
アランはつかつかとミシェルの前まで歩いてくると、口を開くよりも早く、力任せにミシェルの胸ぐらを掴んだ。
「──……っ!」
「お前は……! なんてことをしてくれたんだ!!」
アランは掴む手の力を緩めないまま、ミシェルをぐいと引き寄せた。
至近距離にある、父親によく似た緑色の瞳。その目尻が、怒りのためか朱に染まっていた。
震え出した身体が、言うことをきいてくれない。
ミシェルは瞬きすらできなかった。
「私が何のためにお前を引き取ったと思っている。これまで散々投資したのに……計画が全部ぱあじゃないか! 本当に、お前も、父上も、母上も……この家の人間はろくなことをしない!!」
放り出された身体が、冷たい床に打ち付けられる。
ミシェルはぐっと歯を食い縛って、漏れ出てしまいそうになる悲鳴を堪えた。余計な口を開いて、これ以上アランの不興を買いたくはなかった。
アランの前でミシェルが勝手に口を開くことは、禁止されている。
「私が許可を出すまで謹慎とする。私の前に、その顔を見せるな」
アランは通りすがりに起き上がれずにいるミシェルの背中を蹴って、サロンを出ていった。
呻き声すら堪え、ミシェルは身体を丸めて蹲る。
打ち付けられた身体が、蹴られた背中が、痛かった。
しかし最も強く痛みを訴えているのは、心の方だ。
こんなにミシェルに辛いことばかり起こるのはどうしてなのか。悪いことなどしていないのに、何故か思うようにいかない。
理由がないのならば、悪意と痛みに堪えなければならない毎日が余計に痛く感じる。
ミシェルは首を左右に振って、折れてしまいそうになる心を叱咤した。
「──大丈夫。大丈夫だから。もう、痛くないわ」
ミシェルを心配してくれるエマがいる。
今日の夜会だけでも、あんなにも多くの人がいた。
きっと、まだこれから先、幸せになれる可能性はある。
だから、大丈夫だ。
ミシェルはゆっくりと立ち上がって、自室に戻った。夜着に着替えるのも億劫で、布団をかけて目を閉じる。まだ残る背中の痛みに耐えるように、身体を丸めた。
アランの瞳の緑色が、父親のそれと重なる。もううっすらとしか覚えていないその人の顔が、頭の中に浮かんでは消えていく。
ミシェルが眠りに落ちたのは、それから何時間も後のことだった。