3章 双子の思惑
「イザベル様、リアーヌ様……お久し振りでございます」
ミシェルは今すぐ走って逃げ出したい気持ちを堪えた。
バルテレミー伯爵家での日々は、思い出したくもない。互いに大人になった今も、向き合ってしまえば心はあの日々に引き戻されてしまう。
「ミシェルは今日が社交界デビューなのね。おめでとう。あの頃からは想像できないくらい、綺麗になったわね」
「そうだわ。私達、お祝いしようと思って飲み物を持ってきたの。どうぞ」
イザベルとリアーヌは、邪気のない表情で笑っていた。
リアーヌは両手に持っていたグラスの片方をミシェルに渡そうとした。イザベルも同じグラスを持っている。中には、深い赤の飲み物が入っていた。
「私、お酒は──」
見たところ、中身はおそらく葡萄酒だろう。
ミシェルは今日まで、酒を一口も飲んだことがない。普通は社交界デビューの日に家族と共に飲むことが多いらしいが、少なくともアランはミシェルと酒を飲もうとは考えていないだろう。
「何を言っているの。もう問題ないでしょう」
「そうよ。それとも、私達とは飲めないって言うの?」
リアーヌの目の色が変わったのを見て、ミシェルは首を振った。
断ることなど、許される筈もない。
「そんなことはありません。いただきます」
ミシェルは右手を伸ばして、リアーヌからグラスを受け取ろうとした。
その手がひやりとしたグラスに触れた瞬間、ミシェルはリアーヌによって強く引っ張られる。転びそうになったミシェルは、すぐに手を引っ込めて足に力を入れた。
ここで転んだら、更に目立ってしまう。二人が何を考えているかは分からないが、まさかこんな場所で無様な姿を曝すわけにはいかない。
そう思って必死で表情を取り繕おうとするミシェルの前で、リアーヌが高い悲鳴を上げて尻餅をつく。そのドレスの上に、ミシェルが受け取る筈だったグラスが落ちた。
みるみるうちに、ドレスに赤い染みが広がっていく。淡い黄色のドレスに、その染みはとても目立った。
「え──」
「酷いわ、ミシェル様! このようなことをなさるなんて……!」
ミシェルが状況を把握するよりも早く、イザベルはしゃがんでリアーヌに寄り添い、抗議の声を上げた。騒動はリアーヌが派手に転んだことで集まった注目をきっかけにして、周囲に伝わっていく。
この機を逃さないとばかりに、リアーヌが顔を両手で覆って言葉を続ける。
「私達、貴女によくしてあげていたじゃない。ご実家が貧しくて行き場がなかったあの頃、あんなに同じ家で仲良くしていましたのに、こんな仕打ち、あんまりです」
「そうよ! 『貧乏神』って言われていた貴女を引き取ってあげて、一緒にたくさん遊んだじゃない。我が家が飢饉で苦しくなって、貴女の実家が商売で持ち直したからって、ミシェルにはこんな風に侮られたくなかったわ……!!」
イザベルとリアーヌの言葉が、ミシェルの立場を周囲に分かりやすく説明している。
「待ってください、イザベル様。私は──」
ミシェルがどうにか否定しようと口を開く。しかし周囲からミシェル達三人がどう見えているかに気付いた瞬間、さっと血の気が引いた。
立ったままのミシェルが、倒れたリアーヌとそれを庇ってしゃがんでいるイザベルを見下ろしている。リアーヌのドレスには赤い葡萄酒の染みがはっきりと付いていて、その近くには空のグラスが落ちている、ミシェルの手にはグラスがなく、イザベルとリアーヌはそれぞれ一つずつグラスを持っている。
どう見ても、ミシェルが二人を虐めた加害者に見える状況だった。
「貴女が『貧乏神』って言われる度、私達だけはずっと否定してあげていたけれど……こんなことをされたら、もう、優しくできないわ。我が家の飢饉だって、貴女がいたからかもしれないじゃない!」
イザベルの言葉が、ミシェルを糾弾する。
リアーヌが弱々しく微笑んで、イザベルの肩に触れた。
「イザベル、私なら大丈夫だから……」
「リアーヌ。貴女、またそんな健気なことを言って!」
イザベルがリアーヌの手を握る。どこから見ても、美しい姉妹愛の光景だ。
しかしミシェルからは、俯いた二人の口角が確かに上がっているのが見えた。
「ごめんなさい、ミシェル様。もし我が家の没落がミシェル様の『貧乏神』のせいであっても、それは貴女の責任ではないわ。だから、お気を確かに。もしリアーヌの何かがお気に障ったのでしたら、何度でも謝りますわ。ですから……どうか、お怒りを鎮めてくださいませ」
いつの間にか、ダンスの音楽が切れている。静寂が、少しずつ広がっていく噂話のさざめきに塗り替えられていく。
ミシェルは、何も言えなかった。
取り返しがつかない過ちを犯してしまったということだけは、はっきりと分かる。こんな評判が広がったら、助けてくれる男性を探すどころか、まともな縁談は望めないだろう。
「──何をしている」
真っ白になったミシェルの頭に、聞き慣れた声がするりと入り込んで全てを支配していった。ダンスを終えたアランが、ナタリアを伴って戻ってきたのだ。
「お、兄様……」
アランはすぐに状況を見て、思いっきり顔を顰めた。
それを見たイザベルが、肩を落として目を伏せる。
「リアーヌ、今日はもう帰りましょう」
「でも、イザベル……」
「そのドレスでは、もうどうしようもないわ。──失礼いたします」
アランが引き止めるよりもミシェルが謝罪するよりも早く、二人は夜会の会場から早足で出ていってしまった。
残されたミシェルは、言い訳もできずに無言のまま立ち尽くしている。
どうしよう。どうしよう。頭に浮かぶ言葉は、それだけだ。
アランが深く溜息を吐く。その腕の陰に隠れて、ナタリアがミシェルの不幸を喜び口角を上げた。
「ミシェル。家に帰りなさい」
「ですが、私は何も──」
ミシェルは無意識に縋ろうと右手をアランに向けて伸ばしていた。アランに縋ったところで、意味などないと分かっていたのに。
当然のように、その手はぴしゃりと撥ね除けられる。
「聞こえなかったのか。私は、帰れ、と言っているんだ」
聞いたこともないほど厳しい低い声に、ミシェルの背筋が凍る。
ミシェルは震える足でどうにか膝を折って退出の挨拶をして、許されるぎりぎりの早さで大広間の扉に向かって歩いた。
あちこちから聞こえる声が、ミシェルを追い詰めていく。
可愛らしい見た目をして、中身は悪女。
まだ若いのに、貧乏神に憑かれている。
関わると貧乏神に巻き添えにされるかもしれない──
走り出したい気持ちを必死で抑え、どうにかオードラン伯爵家の馬車に辿り着いたミシェルは、アランから先に指示を出されていたらしい御者によって、強制的に家に向かわされた。
ミシェルが逃亡しようとすることを避けるためか、ミシェルが馬車に乗ってから言葉を発する前に馬車が動き出してしまったのだ。
「……どうして、こんなことに」
今日のために、ミシェルは努力を重ねてきた。エマだって、一緒に出かけられる日を夢見て、ミシェルをいつも以上に磨き上げてくれた。
それなのに、ただ自身の価値を落とすだけで帰るはめになってしまった。きっとまた、屋敷に軟禁される日々に戻るのだろう。
ミシェルはこれから何をしたら良いのか、分からなくなった。子供のように泣きじゃくってしまいたいと思いながらも、大きな瞳からは涙も溢れてこない。
エマにどんな顔で会えばいいのかすら、分からなかった。




