3章 夜会前日の作戦
「ミシェル様、デビュタントのドレスが届きましたよ」
「ありがとう、エマ。しまっておいて」
それから三年が経ち、十六歳になったミシェルは、誰が見ても完璧な令嬢へと成長していた。
長い柔らかな茶色の髪は自然に波打ち、ふわふわと揺れる。大きな淡い水色の瞳はアクアマリンのように透きとおっていた。
オードラン伯爵邸から出ずに育ったため、きめ細かく真っ白な肌と華奢な手足を持ち、それでいて食事量を完璧に管理されたため、女性らしい柔らかさまでも持っている。
控えめに微笑む様は天使のようで、指先の動き一つとっても完璧に計算されている。厳しい詰め込み教育と、日々の緊張感によって作り上げられた美しさだ。
「え、見ないんですか? すごく綺麗ですよ!」
ミシェルはエマが抱えている大きな箱を見て、目を伏せ小さく溜息を吐いた。
「良いわ。サイズ確認のときに着てみたもの」
アランが雇っている家庭教師全員から合格点を貰って二か月が経つ。
明日の夜会で、ミシェルは社交界デビューをする。
ミシェルがオードラン伯爵家で暮らすようになって初めて買ってもらった服が、このデビュタントのためのドレスだった。
高価な素材ではないが、シンプルかつ繊細に作られた白いドレスは、ミシェルによく似合っていた。アクアマリンによく似た色のガラス玉が入ったネックレスですら、ミシェルが身につけると本物のように見える。
「そうですか。明日が楽しみですね!」
エマはそう言って、ドレスをハンガーにかけ、クローゼットにしまっていく。
ミシェルは、アランからこの日のためのドレスを仕立てると聞いたとき、自分がこの家に引き取られた理由を確信した。
かつて、ミシェル自身がイザベルとリアーヌに対して思っていたことでもあった。激しい恋愛の末の身分差婚や身売り結婚であれば、持参金はかからない。それどころか、家に多くの財産を入れることができる。
その額は、家庭教師代など大したことがない程だ。
鏡の中に映るミシェルの顔は、皆が美しいと褒め称えていた母親によく似ていた。ミシェルの方が可愛らしい印象が強い分、かえって男性受けは良いのかもしれない。
「元気がないですね。飴食べます?」
「エマ、それどうしたの?」
「こないだお休みの日に買ってきたんです。美味しいですよ」
「いただくわ」
ミシェルはエマから貰った飴の包みを解き、蜂蜜色のそれを口に入れた。体温でほろりと解けるように広がる甘さに頬が緩む。
エマとミシェルは、この三年間で主従を超えて仲良くなっていた。共に出かけたりはできないものの、エマはよくミシェルに外で買った菓子をこっそり分けてくれ、ミシェルの知らない様々な話を聞かせてくれる。
そんな何でもない時間が好きだった。
「ミシェル様は、どうしてそんなに落ち込んでるんです?」
エマがそう言って、ミシェルの側に寄ってくる。ミシェルは鏡に布を掛けて、くるりと振り向いた。
「だって、お兄様はきっと私をどこかに売るつもりなのよ。できるだけ高い値段をつけてね。……そのために、私をここで育てたのだわ」
アランは、ミシェルとアランの母親がかつて社交界を騒がせた花の一人であると知っていた。幼いミシェルを見て、きっと年頃になった姿を想像したのだろう。
だからあの日、バルテレミー伯爵家の財務状況を調べて、ミシェルを買い戻したのだ。
屋敷に軟禁されていたのは、外で悪い虫がつかないようにするため。そして、あえて世間知らずにするためだ。
そうすれば、ミシェルは逃げる手段もなく、アランの思い通りになる。
「そうかもしれませんけど、ミシェル様はお美しいですし。夜会で助けてくれそうな殿方を引っかけてきたら良いんじゃないですか? 旦那様が手出しできないくらいの人とか」
「そんなの、できないわよ」
「でも、旦那様だって夜会で常にミシェル様を監視していることはできないと思います。だって、奥様を同伴されるのでしょう。あの人、絶対にミシェル様と並びたがらないと思いますから、チャンスですよ」
ミシェルはエマの言葉にはっとした。
確かに、最近ナタリアは必要最低限しかミシェルに関わってこない。エマがナタリアの侍女を外されていた理由も、その美しい容姿故だった。
ならば、ミシェルと夜会で共にいることも嫌がるのではないか。
アランも連れてどこかにいってくれるのならば、ミシェルには最高のチャンスである。
「そうね。きっと、一回きりのチャンスだわ」
ミシェルが言うと、エマは首を傾げた。
「一回だけ、ですか?」
「ええ。きっとお兄様は、明日のデビュタントにしか、私を連れていかないわ」
アランは今、利益が出ないオードラン伯爵領の経営を信頼できる親族に任せ、自分は商人として仕事をしているようだ。どうやら商才はあったようで、この家がこんなに立て直しているのも、その商売による利益が大きいのだそうだ。
ミシェルを商品として扱うのであれば、夜会に露出するほどにその価値は落ちると考えるだろう。
世間知らずに育てたのはアランだ。万一にも商品であるミシェルに傷が付かないようにするに決まっている。
しかしミシェルを伯爵令嬢として誰かに身売り結婚させるつもりならば、社交界デビューをさせないわけにはいかないのだ。
ミシェルが今の生活から逃げ出すのであれば、明日の夜が最大の好機だ。
「──エマ。明日、私を思いきり可愛くしてくれる?」
「勿論です。私だって、ミシェル様には自由になって欲しいんです。一緒に行きたいお店も、たくさんあるんですよ」
エマがそう言って、ぐっと手を握る。それに微笑みを返しながら、ミシェルはアランが決めた人生に抗うことを決めた。