7章 温かい口付け
前半はラル視点。
後半はミシェル視点です。
◇ ◇ ◇
ラルはテーブルの陰からミシェルとパトリックの様子を観察していた。
ミシェルからは、ぎりぎりまでパトリックを止めずに情報を聞き出すようにと言われている。
しかしパトリックがミシェルに腕を伸ばしたのを確認し、これ以上はミシェルの身が危険であるとラルは判断した。
「──……って、そんなこと俺が許すわけないっすよ」
「何だ──……ん、んんっ!」
小さな薬瓶を握りしめたラルは勢い良く飛び出して、一気にパトリックの背後に回った。ミシェルに夢中だったパトリックは突然現れたラルに驚き、抵抗する間もない。
すぐに薬瓶の蓋を開け、匂いを嗅がせて意識を奪う。
薬瓶の中身は強力な眠り薬である。
ラルはぐにゃりと身体中の力が抜けてその場に倒れたパトリックの手足を縛り、目覚めても逃げられないように拘束した。
それから、ラルがこれほどの大立回りをしているにも拘わらず、無表情で虚空を見つめるミシェルに向き直る。
「はい。奥様、これ飲んでくださいねー」
ラルがポケットから取り出した中和剤を飲ませると、ミシェルはやがてぱちりと瞬きをして首を傾げた。
「──……ラル?」
「そうっすよ。奥様、お加減いかがです?」
「あまり良い気分とは言えないわね……」
ミシェル自身が何らかの毒や薬を使われる可能性は高かった。だからこそ、ミシェルはぎりぎりまで、という指示をラルにしたのだろう。
分かってはいても、心臓に悪い。
「そうでしょうね。一応念の為、名前と旦那の名前言ってくれます?」
「私はミシェル・フェリエよ。夫はラファエル・レミ・フェリエ」
ラルはその答えを聞いて、ほっと安堵の息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「私はミシェル・フェリエよ。夫はラファエル・レミ・フェリエ」
自分の言葉がすとんと胸に落ちてくる。
ぎりぎりまで手を出さずにパトリックを観察するよう指示をしたのはミシェル自身だ。それは、そうすることでよりパトリックの油断を誘うことができると思ったからであり、同時に本音を聞くことができるかもしれないと考えたからだ。
しかし、あの自分という存在がまるごと消えていくような感覚は、恐ろしかった。今も油断をすれば震えてしまいそうなほど、身体の芯が冷えている。
ラルが軽く肩の力を抜いて溜息を吐いた。きっと心配させただろう。
「良かったっす。それじゃ、奥様は一旦身体が落ち着くまで座っててください。そこの人が起きる前に、さっさとこの部屋調べちゃいますんで」
早速動き出したパトリックに、ミシェルは目を伏せる。すぐに動くことができない自分が情けない。
「ごめんなさい」
「いや、俺としては大助かりっす。ありがとうございます。……ただ、ご主人に知られたら怒られそうっすけど」
「ふふ。ラファエル様には、私が頼んだってちゃんと言うから大丈夫よ」
「それで納得するわけないじゃないっすか」
「そうかしら」
「そうっすよ」
軽口を交わしていると、急に廊下からばたばたと足音が聞こえてきた。
ミシェルは動きを止めて、ラルに目をやる。
「──誰か来たのかしら?」
「大丈夫ですよ。あっちが上手くいくか分かってなかったんで、奥様には伝えてなかったんすけど」
ラルが笑って、目尻を僅かに下げる。
ミシェルは初めて見るその表情に目を見張り、同時にこの足音の主が誰なのかに思いあたった。
胸が高鳴る。
期待と不安が綯い交ぜになって、瞳が潤んだ。
「それって──……」
「時間通りの到着っす」
ラルがすうっとわざとらしくミシェルから視線を逸らし、作業に戻る。
ミシェルはばたんと工房の扉が開けられたところで、勢い良く立ち上がった。
「ミシェル」
「──……あ……」
そこにいたのはラファエルだ。
低くよく響く声だが、今は焦っているのが分かる。
艶やかなプラチナブロンドに、整った容貌。最後に見たときよりもいくらか痩せたように見えるが、それがよりラファエルを人間離れして見せている。人形ばかりの工房の悍ましさすら忘れさせるほどの存在感だ。
そして何より、ミシェルがずっと見たかった、アメジストと同じ紫色の瞳。
ミシェルをまっすぐに見据えるその目は、緊張と安堵が混じった色をしていた。
「──……ラファエル、様」
まだふらつく足も構わず、ミシェルはラファエルに駆け寄った。
膝の力が抜けて転んでしまいそうになったところを、同じようにこちらに駆け寄っていたラファエルの腕に抱き留められる。
その腕の力強さに、ミシェルは縋り付くように大きな背中に腕を回した。
「ミシェル」
「ラファエル様……!」
心臓をぎゅっと掴まれたかのように、胸が痛い。これまでとは全く違う理由で鼓動が速くなっていく。
会いたかった。
その目が見たかった。
何より、生きて、元気な姿を見たかった。
瞼の裏に焼き付いて離れなかった、呼びかけても目を開けない青白い顔のラファエルを消してしまいたかった。
零れた涙が、ラファエルのシャツに吸い込まれていく。
「無茶をして、ごめんなさい……!」
「無茶をさせて、すまなかった……!」
互いに口をついた謝罪の言葉に、そんな場合ではないというのに、ミシェルとラファエルは同時に小さく吹き出した。
それから、これまでの隙間を埋めるかのように、どちらからともなく口付ける。
触れた唇が温かくて、ミシェルはラファエルが生きてここにいてくれる現実に心から感謝した。




