6章 パトリック・エロワという男2
初めて出会った影という存在は、初めはパトリックにとって恐ろしいものだった。
パトリックが絶対にできないことをなんでもないことのようにこなす、ほとんど姿を見せない者達。普通の人間は、恐れるのが当然だ。
しかし彼等を使っているうちに、パトリックは少しずつ、その便利さから抜け出せなくなっていく。
もっと、もっと知りたい。
パトリックはその欲望を隠せなくなっていった。
パトリックにとっては都合の良いことに、貧しいオードラン伯爵邸は、影にとってどこからでも侵入できる場所だったようだ。知りたいと言ったことも、頼んでいないことまで、彼等はパトリックのために情報を集めてくる。
そうしてエステルの全てを知ることで、パトリックはいつからか、エステルは自分のものであるとより強く思うようになった。
そしてエステルが葬儀のために領地に帰ってきたとき、パトリックはエステルに求婚したのだ。
「エステル姉さんがあの男に閉じ込められているのは知ってるんだ。だからこのまま、僕とここで暮らそうよ!」
「何を言っているの、パトリック。貴方は私の弟でしょう」
「もとは従姉弟だよ! それに、エステルだって僕のことを愛しているだろう!?」
「変なことを言わないで。私は、家族を愛しているわ」
パトリックが惹かれた美しく気高い姿のまま、エステルはパトリックが想像もしていなかった言葉を吐いた。
完成されていたパトリックの世界に一滴の黒い絵の具が落ちる。
それはあっという間に、パトリックの感情までも黒く染めていった。
困惑したのは最初だけ。次の瞬間には、パトリックは影に事故死に見えるように偽装するよう指示を出していた。
現実を受け入れることを拒絶したパトリックは、エステルによく似たミシェルを、自分とエステルの愛の結晶であるとより強く思い込んだ。
ミシェルには驚くほどセルジュの面影がなかった。そのことが、パトリックの妄想をより現実に近付ける。
ミシェルはエステルにそっくりだ。エステルとパトリックは、従姉弟であったために容姿も少し似ている。だから、ミシェルはパトリックとエステルの子供なのだ。
早速パトリックは、それまでも出していたセルジュへの手紙に、ミシェルをこちらに渡すよう書いた。
しかしセルジュは素直に頷かない。
パトリックは、更に手紙を送る。
パトリックにとっての真実を、何度も何度も手紙に書いた。
その度に少しずつ、セルジュは妻だったエステルを信じられなくなっていく。
エステルは死んでいて、事実は分からない。
セルジュの酒量は日を追うごとに増えていき、やがてミシェルにより冷たく当たるようになった。エステルの面影を強く残すミシェルを見ることが辛くなっていたのだ。
ならばパトリックにミシェルを寄越せば良いのに、それには素直に頷かない。
パトリックは影に指示を出し、オードラン伯爵家に大きな借金を作らせた。そして裏から手を回し、自分が支援しようと口を出そうとした。
しかし、パトリックの計略は失敗に終わる。
パトリックよりも先に金を使ってミシェルを手に入れた家があったのだ。
バルテレミー伯爵家は、オードラン伯爵家とは違って裕福だった。影こそ使っていないものの、以前のように侵入し放題ではなくなってしまった。
パトリックは攻めの手を変える。
ミシェルに手を出せないのならば、今のうちにセルジュへの復讐を果たすべきだ。
ジラール男爵の協力で、男爵の娘のナタリアをアランの側に送り込むことに成功した。アランはジラール男爵とナタリアをすっかり信じたようだった。
そしてジラール男爵自身が、アランに『貴婦人の枕』を渡す。邪魔な父親を殺すことこそが幸福への道であると思い込んだアランが、セルジュに毒を使うのはすぐだった。
ジラール男爵は、ナタリアを通してアランを操っていた。
パトリックはバルテレミー伯爵家で虐げられるミシェルの情報を聞くことに、歪んだ感情を抱き始めた。
「──姉さんの分まで、君が罰を受けてくれているんだね」
エステルはこの世で許されない罪を犯した。それを、ミシェルが我が身で償っているのだ。
いつかその罪が清算される日が来たら、必ずパトリック自身が、全ての痛みを取り上げて守ってあげよう。
そうすれば、きっとミシェルこそは、パトリックの全てを受け入れる。
それから数年が経ち、ミシェルがオードラン伯爵家に戻ったと聞いたとき、パトリックは嬉しかった。これでまた、ミシェルのことを詳しく知ることができる。
ナタリアはミシェルを疎んだ。
アランもミシェルに冷たく当たる。
しかしこれも今だけのこと。まだ罪が精算できていなかったのだ。きっと社交界デビューをするために必要な、修行の時間なのだ。
パトリックはその状況を知りつつも、一切手出しをしなかった。
そうして訪れたデビュタントの日は、ミシェルを遠くから見るだけで、声を掛ける勇気が出なかった。
初めて見るミシェルがあまりにエステルによく似ていて、直視できなかったのだ。
ミシェルが突然フェリエ公爵家に迎え入れられ、侯爵家の養子となって結婚をした。更にジラール男爵が駒として扱っていたアランが捕らえられ、ナタリアまでも逮捕された。
ジラール男爵から借りた影も、フェリエ公爵邸には忍び込めない。
パトリックはここまで積み重ねてきたものが一気に崩れていくような感覚に囚われる。
ジラール男爵は娘が捕まったというのに素知らぬ顔だった。やはり器の差なのだと痛感させられる。
「こうなったら、正面から攻めるしかないね。大丈夫。私が、君を救ってみせるよ──」
ラファエルはミシェルに、エマという侍女と引き換えに結婚を迫ったに違いない。
なんて卑劣な人間だろう。
一人前になったミシェルを迎え入れようとしていたのに、酷い誤算だ。
まずは復讐からだ。
どうせあの公爵は伯爵家を潰す気だろう。ならば自分は、ミシェルがかつて虐げられていた分の復讐を果たさなければならない。
何かに追い立てられるように、パトリックは行動した。
パトリックはジラール男爵から仕入れた『貴婦人の枕』を、バルテレミー伯爵夫人イヴォンヌに渡し、かつての栄光を賛美し、没落を大袈裟に嘆いて見せたのだ。
思惑通りに事が運んでイザベルとリアーヌも死に、パトリックは今度こそ絶対にミシェルを手に入れたくなった。
奇しくもここでパトリックの思惑がまたジラール男爵と一致する。
ラファエル・レミ・フェリエを亡き者にする。
その目的のため、二人は協力を惜しまなかった。
「──ああ、エステル。エステル」
パトリックの手が、大人しくなったミシェルの頬に触れる。
輪郭を辿るように撫でて、パトリックは目を細めた。
「僕のことを『パトリック様』と呼んで」
「……パトリック様」
ミシェルは何の抵抗もせず、穏やかな表情でパトリックを呼んだ。
それはパトリックがかつてエステルから呼ばれたかった呼び方だ。
最初から弟のように扱われていたパトリックは、エステルが死ぬまで、他の男達のように敬称を付けて呼ばれたことはなかった。
そしてエステルは、『セルジュ様』と呼んでいた男と結婚したのだ。
「君はエステルだよ。僕を愛していると言うんだ。君は僕のものだ」
「私はエステル。パトリック様を愛しているわ。エステルは、パトリック様のものよ」
パトリックは嬉しくなった。
ついに、パトリックが長年求めていたものが完成したのだ。
パトリックだけの、完璧な『エステル』が。
「ああ、立ったままだと疲れてしまうね。私が抱いて運んであげるよ」
パトリックはミシェルを抱き上げると、雑多な工房で明らかに浮いている豪奢な椅子にミシェルを座らせた。
早速いつものように櫛を手に取って、柔らかな髪にゆっくりと通していく。パトリックがこれまでに作った人形達と違い、その髪は櫛に絡まることはない。
「そう……エステルの髪は、いつだって艶やかで綺麗だった」
ミシェルに与えていた部屋は、かつてのエステルの部屋を再現したものだ。服は、エステルが着ていたものを丁寧に手入れしたもの。
エステルの部屋で生活し、エステルの服を着たミシェルは、もうエステルそのものだ。
パトリックは完成した美しい人形を眺めた。
自分を愛するエステルは、パトリックが求め続けていたものだった。
ようやく完成した理想のエステルにパトリックは歓喜し、抱き締めようと両手を伸ばした。




