6章 パトリック・エロワという男1
パトリック視点です。
◇ ◇ ◇
エステルに関する記憶は、パトリックの中で今も輝きが色褪せることはない。
その全てを心の中の美しいガラスケースに丁寧に飾って、いつも眺めているから。
それは、ある日の午後。
パトリックは親に連れられて、エロワ子爵邸を訪れていた。親同士、何か用事があったらしい。
しかしまだ子供のパトリックには関係がない話だ。
親はエロワ子爵家の唯一の子供であったエステルに声を掛けて遊んでいたら良いと言っていたが、引っ込み思案のパトリックにそんな勇気があるわけがない。ただでさえエステルは妖精か人形のように可愛らしく、目の前にすると普段以上に緊張してしまうのに。
パトリックは退屈で、屋敷の池を眺めていた。
池には魚がいて、眺めているだけでも楽しい。パトリックは右手に木の棒を持って、たまに水面をぴちゃぴちゃと波打たせる。すると水面の動きに合わせて魚達が速く泳ぐ。面白くはないが、見ていて飽きることもない。
なんとなく退屈を紛らわせていると、エステルがパトリックに話しかけてきた。
「そんなに池の近くにいると危ないわ」
これまでにほとんど会話をしたことがなかったため、まだ幼かったパトリックは跳び上がって驚いた。
そして足を滑らせたパトリックは、思いきり池の方へ転んでしまった。
落ちると覚悟したのは一瞬のこと。
しかしパトリックは、池に落ちることはなかった。エステルがパトリックの腕を思いきり引いてくれたからだ。
「い、いった……」
「ごめんなさい。かえって驚かせてしまったわ」
尻餅をついたパトリックの横で、パトリックの体重を支えきれずに転んで綺麗な服を汚したエステルが無邪気に笑う。
その笑顔があまりに眩しくて、パトリックは正面から見ることができなかった。
パトリックはそれからも、エロワ子爵邸を訪れる度にエステルの側にいたがった。いつからかエステルはパトリックの相手をするよう親に頼まれるようになったらしい。
そんな些細なことも、パトリックの優越感を刺激した。
そしてある日、パトリックは親同士の会話を聞いてしまう。
「うちにはエステルしかいないから、エステルには婿養子を取ってもらわないといけないかな」
「あら、貴方。エステルだって恋をするかもしれないわ」
「うちのパトリックならちょうど良いんじゃないか? エステル嬢の相手にするにしても、養子にするにしても、歳は近いし」
「そうねえ。まあ、二人次第かしらね」
パトリックはその会話に衝撃を受けた。
このままいけば、あのエステルの側にずっといることができる。美しい従姉を、自分のものにできる。
エステルの親である子爵達も、内心ではエステルとパトリックの仲を応援しているようだった。どこの馬の骨とも分からない男に愛娘を奪われるよりは良いと思ったのかもしれない。
エステルには好きにして構わないと言いながら、エステルの両親は夜会のエスコート等をパトリックに頼んできた。
このまま上手くやれば、エステルと結婚できる。
パトリックはそう驕っていた。
だからエステルがセルジュと仲良くなっていく姿を見ても、最後は自分のものになると信じて疑っていなかった。まさかその男がエステルを攫ってしまうなど、考えもしなかった。
エステルの縁談を知らされた日、パトリックは子爵達から請われてエロワ子爵家の養子となることが決まった。
エステルはあっという間にオードラン伯爵家へと嫁いでいった。
最初は貧しい家だからと反対していた親達も、エステルとセルジュの気持ちに負けて結婚を了承したらしい。
そしてパトリックは、入れ替わるようにしてエロワ子爵家に養子に入った。
エステルがいない屋敷で、パトリックは思う。
きっとエステルは、セルジュに脅迫でもされて、望まない結婚をしたのだ。エステルだって、パトリックと結婚して実家で暮らしたかったに違いない。
そんな後悔とも思い込みとも付かないような想いを拗らせていたパトリックに、ジラール男爵が近付いてきた。
「──あの娘は可哀想ですね。貴方と結婚したかったのに違いないのに、あんな男に捕まってしまって」
それは、パトリックがずっと誰かに言ってほしいと思っていた言葉だった。
社交界で向けられるのは、エステルの一番側にいたのに選ばれなかったパトリックを哀れむ目ばかりだった。彼等はエステルとセルジュを純愛であると褒めそやす。
しかし違う。
ジラール男爵の言うとおり、エステルは望まない結婚を強いられたのだ。きっと、相手が格上の伯爵家だから、逃げられなかったに違いない。
甘い言葉は、するするとパトリックの中に入ってくる。
地下室を作り始めたのもこの頃だ。
パトリックとエステル、二人だけの楽園を作りたい。そんな夢物語に賛同してくれたジラール男爵を、パトリックは急速に信頼していった。
ジラール男爵は商人として得た人脈を使って、誰にも邪魔されることのない愛の巣を作るために協力してくれた。同時に、パトリックのエステルがオードラン伯爵邸でどうしているか心配だというと、影と呼ばれる特別な訓練をした男を貸してくれた。




