6章 エステル
そこには、ミシェルがいた。
綺麗な服を着せられた動かないミシェルが、何人も並んでいた。
「これ、は──」
テーブルの上には無数の青が散らばっている。
ブルートルマリン。
タンザナイト、ムーンストーン。
ラブラドライト。
ブルーオパール。
同じ色のようにも見えるが、それぞれ透明度や青の濃さが違う。
「人形達の瞳に合う宝石を探してるんだ。今はアクアマリンを使っているよ」
人形に顔を向けると、輝く瞳は確かにアクアマリンだ。
ミシェルの瞳と同じ色だ。
壁際の棚に並んでいるのは束ねられた柔らかな茶色の髪。波打っているものから、まっすぐなものまで様々だ。周辺の床には作業の際に落ちた髪が散らばっている。
聞かなくても分かる。
この髪も、人形のために集めたに違いない。
何人もの自分に見つめられながら、ミシェルは違和感に気付く。その中の数体は、ミシェルよりも成長した姿をしていたのだ。
これはミシェルではない。
これは、ミシェルも大好きだった、もう、十年以上前に別れを告げた──母、エステルだ。
ミシェルがそれを口にする前に、パトリックが言う。
「エステル姉さんを作っているんだ」
その声は恍惚として、まるでこの世の幸福を全て詰め込んだようだった。
ミシェルは振り返る勇気が出ないまま、ゆっくりと口を開く。
「お……お母様を……?」
しかしパトリックはそんなミシェルなど見えてもいないかのように、一番幼い姿の人形の前に立った。
「ほら、これは私が覚えている最初のエステル姉さんだよ」
指が、埋め込まれた髪を梳く。
年齢は十歳くらいだろう。無邪気な微笑みが可愛らしいその人形は、動き出さないことが不思議なくらいだ。
白いワンピースは少女らしく大きなリボンが付いていて、とても可愛らしい。
「こんなに小さい頃からとても可愛い……このとき姉さんは僕のものになったんだ」
いつの間にか、一人称が変わっている。こちらがパトリックの素なのだろう。
指先で絡まった人形の髪を丁寧に解いたパトリックは、近くの床に置かれていた霧吹きを髪に吹きかけ、櫛で丁寧に梳かし直した。
花の香りがして、霧吹きの中身に精油が使われていることが分かる。まるで侍女が主人にするように、パトリックは人形の髪の先まで手入れをしている。
それを終えると、パトリックは更に隣の人形、隣の人形と、一つずつミシェルに紹介していく。
「これは舞踏会のとき」
華やかな夜会のドレスは、繊細なレースが美しい。淡い桃色がアクアマリンの瞳を引き立たせていた。
これは見慣れているミシェル自身の姿にも最も近い。
「こっちは領地にきたとき」
紺色のスカートにブラウスとスカートを合わせた軽装だ。スカートの生地は軽く、動きやすそうだ。これを着て領民に混じって、観光でもしたのだろうか。
最後の人形は、ミシェルの記憶の中のエステルそのものだった。
「これは……私が最後に見た姿だ」
「これ、これは──……」
細く儚げで、空に溶けてしまいそうな透き通った美しさ。どこか病弱そうな雰囲気があるのは、あまり日の光を浴びていなかったからだろう。
人形が着ている服は落ち着いた黒。
ミシェルの母は、エロワ子爵領で川に落ちて命を落とした。
そのとき着ていた服は黒い喪服だ。親戚の葬儀があるからと、ミシェルとアランを置いて、セルジュも連れずに生まれた領地に帰ったのだ。
「そうだよ。あの忌々しい伯爵を説得して、親族の葬儀に出てきたときだ。……あのとき僕を受け入れてくれていたら、きっと今は幸せに生きていたのにね」
ミシェルは息を呑んだ。
それはつまり、エステルはパトリックを受け入れなかったから、今、ここにいないということではないか。
「あ……貴方、お母様を──」
パトリックが一人で領地にやってきたエステルに迫り、エステルはそれを拒絶した。恋心を拗らせていたパトリックは、自分の思うように動かないエステルを川に突き落とした。
そんな光景が、ミシェルの脳裏に映し出される。
ミシェルは無意識にパトリックから逃げるように後退った。
パトリックが人形から、ミシェルに視線を移す。その目は、人形を見ていたときと全く同じ色をしていた。
「お母様? 何を言っているんだ。君が、僕の姉さんだろう?」
パトリックが、ミシェルの髪に手を伸ばす。
ミシェルはまた一歩退がり、その手から逃れた。
「何を言っているの? 私はミシェルよ」
「君こそ何を言っているんだ? 君のその髪と瞳……姉さんのものだよね」
ミシェルの髪も瞳も、ミシェルのものだ。
エステルに似ていても、ミシェルはミシェルでしかない。
愛していた母にミシェルが会えないように、それは変えることができない事実だ。
「ああ……ああ。美しいよ」
一歩。
また一歩。
ついに、ミシェルの背中が壁に触れた。
「その顔、声……君は姉さんそのものだ。ああ、姉さん。姉さん……私の最愛……」
もう、逃げ場はない。
ミシェルは一縷の望みに縋るように、じっとパトリックを見上げた。
しかしそんな小さな希望すら打ち砕くように、手巾を持ったパトリックの手がミシェルの顔に伸びる。
「子爵! 待って。待ちなさい」
「何をだい? 私は、何もしていないよ」
それが口と鼻を覆って、ミシェルは甘い香りを思いきり吸い込んだ。
「んっ。い、今……」
声が震える。
ミシェルの思考に急速に靄が掛かっていく。
やがてたいした時間も経たないうちに、ミシェルの頭の中は真っ黒に染まってしまった。




