6章 工房
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それから二日が経ち、地下では何も進展もないまま時間が過ぎた。
ミシェルは焦りを感じていた。
ラファエルが目覚めて近くまで来てくれていることは嬉しい。しかしそれは、怪我が治ってもいないのに無理をしているということだ。ましてラファエルは命を狙われていたのだ。
先日のジラール男爵とパトリックの会話によると、以前までと同じようにラファエルの危機は続いていると考えて良い。
フェリエ公爵邸の中ならば安全だろうが、この場所の近くにいるのならば、居場所はエロワ子爵領内の宿である。とても安全とは言い難いだろう。
公にはまだ怪我のために屋敷で療養していることになっているが、それが嘘だと見破られているのかどうかも分からない。
ミシェルがもはや苦痛となった作り笑顔の朝食を終えたところで、パトリックがミシェルを呼び止めた。
「今日も工房にいるから、何かあったら呼んでね」
パトリックのその言葉を聞いて、ミシェルはついに覚悟を決めた。
昨夜ラルとも話していたのだ。ミシェルに何かあれば、外への扉を開けることはできる、と。しかしそれをすると、それ以上地下での調査はできなくなる。
今まで、ミシェルは迷っていた。
この場所にまだいれば、聞き出せる情報や来客があるのではないか。ミシェルがここから出ることで、ラファエルにより無理をさせてしまうのではないか。
しかしパトリックとラルしかいないこの場所に長くいることで、ミシェルの心はすり減っていく。
ラファエルの顔が見たい。
最後に見た寝顔ではない、あのアメジストの瞳で見つめられたい。
もう、地下になどいたくなかった。
それならば、最後に調べなければならない場所がある。
ミシェルはこれを最後にしようと、ずっと口にしていなかった言葉を口にした。
「──パトリック様は……工房で何を作っていらっしゃるの?」
この地下で調べていないのは、パトリックの工房の中だけだ。
工房を調べたら、外に出てラファエルと合流しよう。ミシェルはそんな希望を込めて、パトリックの目を見た。
パトリックは一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべる。
「興味があるなら見に来るといいよ」
「……よろしいのかしら?」
テーブルの影で握りしめた拳が痛い。
問いかけながら、自らの覚悟をもう一度確認する。
もう、引き返すことはできない。
「君には是非来てほしいと思っていたんだ!」
パトリックが立ち上がり、ミシェルにエスコートのための手を差し出してくる。
ミシェルは感情を仮面の下に隠して、その手を取った。
工房の扉には鍵が掛かっていた。パトリックはポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込み、慣れた手つきで鍵を回した。
開かれた扉の向こうは、様々な色で溢れていた。
赤、青、黄色、緑。
正に今まで作業をしていたというように、パレットの上には様々な色が踊っている。
置かれたいくつもの正方形のキャンバスに描かれているのは同じ小麦畑だ。
「ここでは、主に絵を描いているんだ」
パトリックが自慢げに描きかけの絵を指し示す。
ミシェルは狂気すら感じる絵画に圧倒されながらも、じっとそれを見つめた。
「この小麦畑──」
相変わらず写実的な絵だ。まだ塗られていないものもあるが、こんな地下に埋もれさせずに王都で販売すれば、それなりに値が付きそうな完成度だった。
「昔から変わらない、私と愛する人が愛した景色だよ。君と見たかったんだ」
パトリックはうっとりとした声で言った。
愛する人とは、ミシェルの母エステルのことだろう。
しかしミシェルにはエステルから小麦畑の話を聞いた記憶はない。エステルが隠していたのか、それともエステルにとっては語るほどの思い出ではなかったのか。
なんとなく、ミシェルは後者であるように感じていた。
ここで過ごしている間、パトリックがエステルを愛していたことは嫌なほど伝わってきた。しかし、エステルがパトリックを愛していたのだと分かる品は何一つ見ていない。
もしもエステルがパトリックを愛していたのならば、エステルからの贈り物の一つくらいあっても良いだろう。秘密の仲だったというのならば、二人並んで描いた肖像画もあってもおかしくない。
ましてここは、誰も入れない地下室だ。
そういったものを隠すには最適な場所なのだ。
それらが一つもない時点で、ミシェルはエステルを信じることに決めていた。
エステルは、ミシェルの父セルジュを愛していた。
それはセルジュの愛ほど重苦しいものではなかったかもしれないが、確かに、愛していたのだ。
ミシェルはあえて感嘆の声を上げながら、ゆっくりと室内の絵画を鑑賞し、あれこれと質問した。ミシェルがパトリックを引きつけているうちに、ラルが室内を調べてくれることになっている。
そして最後の絵画の前で、背後にいるパトリックを振り返る。
「見せてくれてありがとう。素敵だったわ」
ミシェルが微笑んで言うと、パトリックが奥にある扉を指さした。
「そう、君には奥の部屋も是非見てほしいと思っていたんだ」
「よろしいの?」
「構わないよ。それどころか、できれば協力してほしい。丁度行き詰まっていたんだ」
厳重に管理されている工房の、更に奥。
パトリックが扉を開け、ミシェルは背中を押されるようにしてそこに入る。
目の前の光景にふらついたミシェルの背後で、扉が音を立てて閉められた。




