2章 ナタリアの叱責
ミシェルの予想通り、次の日以降、食事の時間以外はずっと家庭教師がくるようになった。
朝起きて、食事をして、家庭教師に礼儀作法を学び、出された課題をこなす。昼食を終え、課題の続きをしていると、別の家庭教師がやってくる。そしてその家庭教師に一般教養を学び、課題を出される。
その課題をしていると夕食の時間になり、夕食を終えて課題の続きをしていると、ジネットの言語の授業か、別の家庭教師の算術の授業の時間だ。
ミシェルが勉強をしている間、手が空いたエマは、ナタリアから貰った服や靴を手直ししてくれていた。どうしようもない服もあったが、三着に一着は着られるように直すことができたようで、ミシェルが服に困ることはなかった。
しかし課題は当然終わらず、ミシェルはエマに寝支度をしてもらってから、一人になった部屋でランプの明かりで本を照らして勉強をした。冷える夜でも最低限の薪しか貰えず、寝台から布団を引っ張ってきて包まった。
最初こそ学べる喜びが勝っていたが、そんな生活が破綻するのは当然だ。ついに二週間が経った日、ミシェルは課題を終える前に机に頭を預けて眠ってしまった。
その日の夕食後、ミシェルは廊下でナタリアに呼び止められた。
「──家庭教師から、課題を終えていなかったと聞いたわ。どういうつもりかしら」
ナタリアの顔には、分かりやすく怒りの色が浮かんでいた。
ミシェルは慌てて頭を下げる。家庭教師に教わったマナーの通りに謝罪するような余裕はなかった。
「何か言いなさい」
「申し訳ございません」
「あなたの教育に、我が家のお金を使っているのよ。その意味、分かっているのかしら」
ナタリアの声は冷たく、ミシェルは顔を上げることができない。
家庭教師達は皆ミシェルに合わせて授業をしてくれている。眠ってしまった自分が悪いのだと、分かっていた。
「……申し訳ございません」
「顔を上げなさい」
言われて顔を上げると、左の頬に強い衝撃があった。叩かれたのだと理解して、歯を食い縛る。
「──……っ!」
「何の役にも立っていないのだから、せめてアランの思う通りに行動して。次に同じようなことがあったら、もっと酷い目に遭うわよ」
ナタリアはそう言い捨てて、ミシェルの返事を待たずに部屋を出ていった。
冷えた廊下で、頬だけがじんと熱を持つ。今更涙を流すつもりもないミシェルは、意識してゆっくりと息を吐いた。
ナタリアの手は、人を叩き慣れていない手だった。この程度なら、腫れることもないだろう。冷やせばジネットが来る前に赤みも取れるに違いない。
早足で自室に戻ると、部屋を整えていたらしいエマがミシェルを見て目尻を吊り上げた。
「ミシェル様、なんですかそれ!」
「ちょっと叱られてしまって……冷やせば大丈夫だと思うのだけど」
「すぐにお水をお持ちします」
エマが慌てて部屋から走って出て行く。残されたミシェルは、鏡で自分の顔を確認した。
赤くなった左の頬に、一筋血が滲んでいた。きっと、ナタリアの爪か指輪が引っかかったのだろう。浅い傷のようだから、痕は残らなそうだ。
「あー……」
鏡の中の傷にそっと触れて、ミシェルは溜息を吐いた。
見慣れていないエマは、驚いただろう。この程度、大したことはないというのに。
「後で謝りましょう」
呟いて、エマが戻ってくる前に課題の続きをしておこうと机に向かった。
ミシェルについている家庭教師は全部で四人だ。その中でもジネットは、最もミシェルに優しかった。ミシェルが特に本を読むことを好いているからでもあるのだろう。
本の中ならば、知らない世界を冒険したり、優しい人と話をしたりできる。その可能性が、オードラン伯爵邸から外出することを許されていないミシェルには一番の幸せだった。
「ミシェル様、治療する前に何してるんですか!?」
「ごめんなさい、エマ」
「はあ……仕方ないですね。時間もありませんし、このまま消毒します」
「ありがとう」
優しいエマがミシェルについていてくれる。学ぶことができるというのは、恵まれていることなのだ。
「これ、奥様ですよね。顔に傷付けるとか、やり過ぎですよ。一度旦那様に──」
「無理よ。……お願い、エマも、何も言わないで」
ミシェルがアランに言っても、アランは何もしてくれないだろう。むしろアランがナタリアに傷のことを言ってしまったら、かえってナタリアのミシェルへの当たりはきつくなる。
それに、エマがミシェルに好意的に接していることがアランとナタリアに知れるのはまずい。
このまま何も言わず、黙っているのが一番良いのだ。
ミシェルの左頬は、消毒され、ガーゼが当てられた。
その夜やってきたジネットはミシェルの頬を心配していたが、ミシェルはなんでもないと押し通した。
その日以降ジネットからの課題が少なくなったのは、ミシェルの生活を想像し、同情してくれたからかもしれない。