5章 二人の影
「そういえば、アランはミシェルをトルロム国のハレムに売ろうとしていたね」
ラファエルはアランを追い詰めたときのことを思い出す。
アランはトルロム国の商人から贋作である美術品をあえて高く買うことで、通常の商取引に見せかけながら、資産をトルロム国に送っていた。ネフティス王国からトルロム国に移住した後の生活資金にするつもりだったらしい。
更にミシェルを王族に売って、ハレムで地位を築かせる。そうすることで、自分達のトルロム国での立場を少しでも高めようとしていたのだ。
「奥様の容姿なら、高値で売れるに違いないっすよね。オードラン伯爵家は商売で維持されていた家ですし、アランもトルロム国に思い入れがあったのかもしれないっすけど」
トルロム国。最近、その名前を良く聞くと改めて感じさせられる。
ラファエルは出会った頃のミシェルに思いを馳せた。
「……売らなかったのは、ミシェルが社交界で『貧乏神』と呼ばれていたからだよ。トルロム国は商人の国。真偽はどうあれ、そんないわく付きの令嬢をハレムに加えるわけにはいかなかったんじゃないかな」
そして、行き場が無くなったミシェルをアンドレ伯爵へと売ることを決めたのだ。
「もしそうでしたら、その噂も悪くは無かったかもしれないっす。結果的にっすけど、奥様はトルロム国に買われずに済んだんですから」
「ミシェルが辛い思いをしたことは変わらないよ」
ラファエルは溜息と共に言葉を吐き出した。
全ては結果論で、ミシェルのこれまでに苦労があった事実は変わらない。そして今、ミシェルにこれほどの覚悟をさせたのがラファエル自身であることも。
「……ちょっと待ってください、ご主人」
「どうしたの?」
「地下に入ってた影が、こっちに来ました」
ラファエルは目を見開いて、天井を見上げた。
「来てくれる? 直接聞いた方が早そうだ」
ラファエルが言うと、すぐに存在感の薄い黒髪の男が室内に現れた。
もう一人の影と入れ替わりに報告のために外に出たというその男──ベノは、ラファエルの姿を見て肩の荷が下りたというように苦笑した。
ベノの報告を聞いて、ラファエルはこめかみに人差し指を当てた。
ベノが地下から出てくることができたのは、ミシェルがフルールのケーキとマカロンが食べたいと言ったからだという。ラファエルはミシェルのその機転と、我儘すら聞き入れられる程度の扱いをされていることに僅かに安堵した。
しかし、いつまでもその扱いが続くという保証は無い。
「『生まれたときから知っている』とは……どういうことだろうね」
それはパトリックがミシェルに言った言葉だ。
それが事実であれば、少なくとも十七年以上前からパトリックは黒幕と繋がっていることになる。
「今回の件、黒幕がトルロム国の王族の誰かだと仮定すると……子爵はどこでその黒幕と出会ったのかな」
「トルロム国にわざわざ行く用事でもあったんでしょうか」
「ちょっと読めないな……他に何か分かったことはない?」
ラファエルの問いに、ベノは首を傾げる。
「子爵の『工房』についてですが」
「それは、籠もるとミシェルに言っていたという場所だね。何を作っているのか分かったかな」
「いいえ。……おそらくエロワ子爵は、かなり長い間黒幕との繋がりがあるようです。地下室の作り、工房の入り口──そのどちらも、『扉が開けられなければ影すら出入り不可能』なものになっていました。そんなものを作るならば、影からの口添えがなければ不可能です」
ベノの話を聞く限りでは、地下室はラファエルの想像以上に屋敷として機能している場所のようだ。ならば、作るのにも相応の時間が必要だっただろう。
「だとしたら、黒幕もその地下室を利用するために作らせたと考えるのが自然だね。──もしかしたら、他の人物の出入りもあるかもしれない。地下に他の影の姿は?」
まさか、パトリックが誰にも見られない工房と将来ミシェルを囲うための場所を得るためだけに、黒幕も影を貸し出すなんてことはしないだろう。
その場所自体に価値があるから作るのだ。
「ありませんでした。間違いなく、あの地下には他所の影は入っていません。あくまで普段は、と言う話ですが」
「そうか。だとしたら、エロワ子爵は影に用事があるときには外に出るということだね」
ラファエルはそう言って、暫し思考を巡らせた。
地下で戦っているミシェルに、一人ではないと伝えたい。
「ラルは次に扉が開いたときに入れ替わりで地下に入って、ミシェルにこれまでの情報を伝えて。ベノは私と行動を。それと……念の為に、ミシェルにこれを渡しておいて」
ラファエルはラルに小さな薬包に入れた錠剤を渡した。
中に入っているのは、研究所で作られた『貴婦人の枕』の毒の特効薬だ。
万能の中和剤と異なり、この特効薬は『貴婦人の枕』のためだけに作られている。その分解毒作用は強く、前回のラファエルのように夜になって発熱をすることもないだろう。
「かしこまりました」
「了解っす」
二人は了承を示す言葉を残して、それぞれ姿を消した。




