4章 ミシェルの部屋
「あの男……」
「そう。行き場が無くなってしまったから、君は仕方なくあんな男と結婚することになったんだろう? 私は全部分かっているよ」
ミシェルの正面で弱った子猫に向けるような表情をしているパトリックは、それこそが事実であるのだと信じ切っているようだ。
咄嗟に反論しようとしたミシェルは、喉まで上がってきた言葉をぐっと呑み込む。
今パトリックは、『全て』分かっていると言った。
ミシェルは微笑みのまま問いかける。
「──お詳しいのね」
「本当にすまなかったね。私がもっと早くあの家から助け出せていればこんなことにはならなかったのに」
笑え。
顔に出してしまえば、自身の感情を、弱点を、晒すことになる。
笑って、自身の全てを仮面の下に隠すのだ。
だからラファエルは、いつだって微笑んでいたのだ。
そうすることで、自分の心を守るために。
そしてきっと、いつからかミシェルもそれに守られていた。
「助け出せて?」
ミシェルは、わざと紅茶をゆっくりと飲んだ。
パトリックは何度も頷いて、前のめりになっていく。
「そうだよ。バルテレミー伯爵家でもオードラン伯爵家でも、君は酷い目に遭っていた! だから、僕は可哀想な君のために──……!」
ミシェルは驚きをティーカップの影に隠した。
バルテレミー伯爵家でも、オードラン伯爵家でも。それは、ミシェルが幼少の頃からその状況を把握していたという意味だ。知っていて、その上で今日まで見ていたのだ。
それが何故なのか、ミシェルにはさっぱり分からない。
パトリックが言葉を切った。
「……失礼。話しすぎたね。突然そんなことを言われても君も驚くだろうし、長旅で疲れただろう? まずはゆっくり休んで、話はそれからにしよう。君の好みで部屋を用意させているんだ」
「……ええ。そうさせてもらうわ」
ミシェルが紅茶を飲みきったところで、パトリックは立ち上がった。
ミシェルも立ち上がり、ドレスの裾を整える。雨のせいで少し汚れてしまっていた。
パトリックがエスコートのためにと手を差し出してくる。
僅かの間悩んだミシェルは、あえてその手に自身の手を乗せる。パトリックがまた、僅かに照れた様子を見せた。
「こっちだよ」
エスコートは、逃がさない意味もあったのだろう。しっかりと握られた手が気持ち悪い。
意図的にそれを意識の外に追いやって、ミシェルは視線だけで周囲を観察した。
廊下にも、写実的な景色の絵が掛けられている。それもどうやら自然な景色に見えるように少しずつ違う視点から描かれているようだった。
連れてこられた部屋は、廊下の突き当たり、一番奥にある部屋だ。これでは逃げようとしたら、全ての部屋の前を通らなくてはならない。
パトリックが部屋の扉を開ける。
そこに用意されていた部屋に、ミシェルはまた驚かされた。
「この部屋は──?」
「君のために用意したんだよ。気に入ってくれたかい?」
パトリックの手を離し、ミシェルはゆっくりと部屋の中央に進む。
上品な紺青の絨毯とそれによく合う明るい色の家具は、最初の部屋と同じだ。
しかしそれ以外の物はどれもとても愛らしい雰囲気で纏められている。むしろ、貴族令嬢の部屋としては素朴な部類に入るだろう。
ピンクの薔薇が控えめに描かれたカーテンに、パッチワークのカバーがかけられたクッション。よく見ると、棚や鏡の上に掛けられている布も全てパッチワークの作品だ。繊細な針仕事をする職人が作ったのか、どれもとても丁寧に作られている。
ミシェルの趣味の部屋かと聞かれると決してそうでは無いが、嫌いでも無い。なんならどこか懐かしささえ感じる。
ミシェルはまた微笑みを作って頷いた。
「え……ええ、とっても。私、疲れたから休ませてもらうわ」
「侍女を付けてやれなくてすまないね。何かあれば、そこの紐を引けば私を呼べるからね」
「だ、大丈夫よ」
パトリックがやってくるのならば、絶対に鳴らさない。
ミシェルはそう思いながら頷いた。
「それじゃあ、次は食事のときにね。着替えは奥のクローゼットに入っているよ。雨で汚れてしまっているし、着替えると良い。私はしばらく工房に籠もるからね」
「……ええ。また後で」
ミシェルが言うと、パトリックは部屋の扉を閉めて出て行った。鍵は開けられたままだ。
どうやら、内側からも鍵を掛けられるようになっているらしい。もしかしたら外から掛けるための別の鍵があるのかもしれないが、気休めにはなる。
ようやく一人きりになったミシェルは、まず入り口の扉の鍵を掛けた。
たとえパトリックが合鍵を持っていたとしても、着替えをしていると言えば入ってこないに違いない。
ようやく少し肩の力を抜いて、ミシェルは着替えをするため奥のクローゼットを開けた。
そこに並ぶドレスは、どれも少し昔のデザインではあったが、愛らしい物ばかりだ。
パトリックの口ぶりからして、部屋もドレスもミシェルのために用意されているようであったのに、微妙に好みから外れている。愛らしいとは思うが、それだけだ。
やはり全て知っているというのはただのはったりだったのかもしれない。
ミシェルは最初に手に取ったシンプルな白いワンピースを選んで着替えた。選んだ理由は、一人で着替えることができるものだったからだ。
側に着替えを入れておくための篭が置かれていたので、ミシェルは汚れたドレスをそこに放り込んで、側にあった寝台に寝転がった。




