2章 初めての授業
「でも、流石に多いのよ……!」
食事を終えて自室に戻ったミシェルは、真っ先に寝台に倒れ込んだ。これまでの食事量に対して、食べるようにと言われた量が多過ぎたのだ。
しかし、もう良いかとカトラリーを置くと、アランの視線が飛んでくる。残すことは許さないというその視線が、ミシェルの手を動かさせた。
胃は限界というほど引き伸ばされているような気がするし、今すぐドレスを脱いでいつものワンピースに着替えてしまいたくて仕方ない。
しかし、この後は家庭教師が来るという。
本来家庭教師というものは夜にまで来るものではないのではないかと、ミシェルは疑問に思っていた。何故なら、イザベルとリアーヌの元に家庭教師がいた時間は大抵は朝か昼であったからだ。
ドレスを片付け終えたところでミシェルがエマに聞くと、エマは怪訝な顔で頷いた。
「普通じゃないです。正直、旦那様のお考えがさっぱり分かりません」
ミシェルは苦笑して、家庭教師が来るのを待った。
ミシェルの部屋にやって来た家庭教師は、祖母ほども歳の離れた女性だった。長い髪をしっかりとシニョンに結い上げた、きびきびとした人だ。
ジネットと名乗ったその人は、ミシェルの部屋の机に何冊もの本を積み上げた。
「体調はいかがでしょうか?」
「え?」
「伯爵様より、ミシェル様はお身体が弱く、これまで一切の教育を受けずに育ったとお聞きしておりますので」
ミシェルは驚きに目を見開いた。
当然、ミシェルにそのような事実はない。しかしアランは、ミシェルの細い身体と短い髪、そして進んでいない教育を、全て病気故のものとして説明したのだろう。
まさか、売られて買い戻したとは言えない。
「え、ええ。そうですの。もうすっかり元気になりましたわ」
ミシェルは引き攣った笑みを浮かべた。嘘を吐くのは心苦しい。
ジネットは頷いて、それからミシェルに微笑みを向けた。
「それでしたら、伯爵様の仰るように、遠慮せずご指導させていただきますわ。ご令嬢にとっては、年頃のうちに華々しくデビューされたいでしょうからね」
「あ、ありがとうございます」
どうやらミシェルは、社交界デビューに間に合うように令嬢としての教養を叩き込まれるようだ。それならばジネットの言う通り、確かに急がなければならないだろう。
今ミシェルは十三歳。十四歳になれば、デビューが可能な年齢となる。この短い髪が伸びるのを待つとしても、猶予は精々三年だ。
イザベルとリアーヌから聞いた話では、十八歳頃までがデビューの適齢期とはいえ、あまりぎりぎりでデビューする人はいないらしい。
若者にとっては大事な婚活の場だ。機会を逃したくないのだろう。
思考に沈みかけたミシェルを、ジネットが現実に引き戻した。
「それでは、今日はもう夜ですので、読み書きの確認から参りますわ。教本を──」
それは短い物語が複数書かれている本だった。言われたページは中ほどにあり、指示されるがままに音読する。途中知らない言葉もあったが、三十分ほどでどうにか最後まで読むことができた。
「意味は分かりましたか?」
「はい」
「分からない言葉は?」
ジネットに問われ、ミシェルは知らない言葉を順に指さしていった。すると、ジネットがミシェルの指さした文字を手帳に書きつけていく。
「それでは、こちらが辞書ですので、以降のページは分からない言葉を調べながら一人で読んでいってください。発音に訛りはありませんでしたので、ミシェル様は語彙を増やして参りましょう」
この教本に書かれている話は、最初は簡単なもので、後にいくほど難しい内容になっていくのだそうだ。今ミシェルが読んだのは丁度真ん中あたりだ。
「物語をひとつ読み終わったら、内容と感想をご自分の言葉で紙に書いてください。最後まで十篇ありますので……そうですね。次に来る四日後の夜までに終わらせてくださいね」
ジネットは大丈夫かとミシェルに視線で問いかける。
ミシェルは、教本をぱらぱらと確認してから頷いた。この内容であれば、時間さえあれば問題ないだろう。
「分かりました」
「それでは、私はこれで失礼いたします。おやすみなさいませ」
「ありがとうございました、先生」
ミシェルがぺこりと頭を下げると、ジネットは頑張りましょうと言って帰っていった。
ミシェルはそのまま机に向かい、早速次の物語を読み始める。
これまで、物語を読むような余裕はなかった。バルテレミー伯爵家にはあまり本はなく、そもそもミシェルに読書をする時間などなかった。母親がいた四歳までは家庭教師もいたが、以降は独学で、バルテレミー伯爵家では仕事をしながらデジレに言葉を教わっていた。
ミシェルは初めての経験に胸がどきどきと高鳴っているのを感じた。子供の頃以来、久し振りに触れた創作物だ。
「ミシェル様、お疲れ様でございます。では、お着替えをいたしましょう」
「そう、そうね。ええ。ありがとう、エマ」
ミシェルは自分がまだ風呂にも入っていなかったことに気付き、慌てて立ち上がった。エマに声をかけてもらえなければ、きっと気付かずこのまま本を読みふけっていただろう。
「お勉強に興味があるのは素晴らしいことですが……きっと、明日以降も勉強詰めですよ。さっきの先生、『社交界デビューに間に合わせる』って言ってたじゃないですか。しっかり休まないと」
「そうね。分かっているわ」
ミシェルは服を脱ぎながら、小さく溜息を吐いた。
何の教養もなく、礼儀作法も最低限の食事のマナーしか知らないミシェルが、ここから数年で社交界デビューを目指して学ぶというのは、無茶なことだ。普通の貴族令嬢は、まだ小さい子供の内から日常的に学び、身近な大人達を見ながら身体にそれを染みつかせていくのだ。
アランがそのつもりならば、きっと、ミシェルの明日以降の予定はぎゅうぎゅうに詰められるのだろう。




