4章 優しくて暖かい場所
ミシェルが目覚めたのは、夜遅く。
窓の外からはざあざあと降る雨の音が聞こえていた。
ぼうっとするまま上体を起こすと、天蓋の外で誰かが動く気配がした。
「奥様、お目覚めになりましたか?」
掛けられた声は静かで柔らかい。
もう聞き慣れた声だ。これは、ミシェルの侍女であるノエルの声。
「──……ノエル? 私……」
少しずつはっきりとしていく頭が、ミシェルをまた悲しみへと引きずっていく。
しかしミシェルが深い思考に落ちてしまうよりも早く、ノエルが片側の天蓋を上げてしまった。
「ちょっと失礼いたしますね」
「え?」
驚いたミシェルに、ノエルは困ったように笑う。
「医師から薬湯を貰っていますので、用意します。お身体、起こしておきましょうか?」
頷くと、ノエルはすぐにミシェルの後ろにクッションを重ねてくれた。軽く寄りかかると丁度良い弾力が背中を支えてくれる。
「……ありがとう」
「いいえ。ではお持ちいたしますね」
ノエルが小さなランプをつけて部屋を出て行く。
ミシェルは先程までよりもはっきりと見えるようになった窓に目を向けた。
ガラスを叩く雨の音が、今日はずっと強い。
不規則な音が、倒れる直前に見たカードの内容を思い出させた。
「あのカード……私宛だったわ」
ダミアンが、ラファエルは命を狙われていたと言っていた。助かる条件は『ミシェルと離縁をすること』だ。
ラファエルは要求を呑もうとしなかったために、何度も命の危険に晒され、ついに大階段から突き落とされるまでになった。
意識を失ったラファエルの服にカードを仕込める人物には限りがある。それほどまでに、犯人は王宮内部に根を張っているのだ。
やがて戻ってきたノエルが、ミシェルにカップを差し出してくる。
「お待たせいたしました」
「ありがとう、ノエル」
ミシェルは乳白色のとろりとした薬湯を一気に飲んだ。
想像より苦くなかったことに小さく溜息を吐く。むしろ爽やかで、身体が温まるような味だった。冷えていた指先まで、血が通っていくような気がする。
ノエルが空のカップを受け取って頷く。
「ちゃんと飲まれましたね。良かったです」
ノエルにも心配を掛けたのだろう。
ラファエルが大怪我をしていつ目覚めるか分からないような状況で、ミシェルが倒れたのだ。フェリエ公爵家で働く人間からしたら、不安になるのも当然だ。
「ごめんなさい。頼りなかったわ」
「そんなこと、お気になさることはございませんよ」
「……しっかりしないといけないときだったのよ」
ミシェルは唇を噛んだ。
このフェリエ公爵家には、先代の子がラファエルしかいなかった。
分家を含めれば親族はもっといるらしいが、それでも突然王都で代わりに働けと言われてできるものでもない。だからこそ貴族家の当主は屋敷では絶対的な存在なのだ。
こんなときだからこそミシェルはしっかりと立って、使用人に指示を出さなければならなかった。
「旦那様がお怪我をされたのですから、奥様がショックを受けるのは普通のことです。それに、こんなことで揺らぐような私達じゃありません」
「ノエル……」
「それに、旦那様が命を狙われるのは、今回ばかりではないのです。いちいち動揺していたら、いくら待遇が良くてもここで働き続けることはできません」
冗談のようにからっと笑って、ノエルは言う。
「ですから、奥様はあまり気に病まれませんように。エマも心配しておりましたよ」
「エマはどうしているの?」
「奥様に付きっきりでしたから、休ませました。あまりに心配するんで、代わりに私がここで夜の番をさせていただくことになったのです」
「そう。ありがとう、ノエル。エマにも心配をかけてしまったわね」
その言葉を最後に思考に沈んだミシェルに、ノエルは一礼して天蓋を元に戻した。部屋の中にはいるようだから、夜の番のため椅子に座っているのだろう。
普段ミシェルもラファエルも夜の番を立てることはなかったから、今夜こうしてノエルがいるのは珍しい。本当に、心配されていることが分かる。
ミシェルはクッションを外して、また寝台に横になった。眠れなかったとしても、せめて身体だけでも休ませなければ明日に障る。
「おやすみなさい」
声のない口を動かすだけの就寝の挨拶に返事はない。
エマも、あのカードを見たのだろうか。もし見ていたとしたら、ミシェルの側を離れなかったというのも頷ける。
──君のせいだよ。
終わらせたければ、私の元へおいで。
宛名がなくても分かる。
犯人がラファエルに要求していたのはミシェルとの離縁なのだ。ならばこのカードはミシェルへ向けて書かれたものに違いない。
エマからの信頼だけではない。
ララがくれた笑顔と、ノエルの優しさ。
自分の意思を大切にして、様々なことに挑戦する日々。
そして大切で、暖かくて、かけがえのない存在。
この場所で手に入れたそれらは、両手には余るほどの幸せをミシェルにくれた。
それらを守るためならば、ミシェルは、ここにいるべきではないのかもしれない。




