3章 ラファエルの帰宅
ラファエルが帰ってきたのは、その日の夕方だった。
ミシェルは馬車の音が聞こえてすぐに玄関ホールへと下りてきた。やがて担架に寝かされたラファエルを、使用人が四人がかりで運んでくる。
王宮医師に検査と治療を受けたときに服を替えられたのか、ラファエルは出かけたときに着ていた貴族服とは違う前を合わせる夜着のような服を着ていた。頭に包帯が巻かれているようだ。
執事頭が担架を持つ使用人達を用意した寝台へと案内する。
後を追おうとしたミシェルは、聞いたことがある声に呼び止められた。
「──夫人」
艶やかな声には威厳がある。
以前に聞いたのは、夜会のときだった筈だ。
「殿下……」
そこにいたのは、このネフティス王国の王太子であるフェリクスだ。
ミシェルは立ち止まり、混乱した思考のままでありながらもどうにか貴族の妻として礼をした。ドレスの裾を持つ手が震えてしまっている。
フェリクスはミシェルの動揺を見ない振りで礼を止めるように言い、代わりに深く頭を下げた。
「すまなかった。ラファエルが怪我を負ったのは、王宮内。……これは私の責任だ」
「頭をお上げください。殿下が突き落としたのではないのですから、謝罪されることはございません!」
ミシェルは慌てて首を振る。
しかし同時に自分の言葉にはっと目を見開いた。
誰かがラファエルを突き落とした。
そうでなければ、どうしてラファエルがこんな怪我をするのだろう。
「……これは、事故、なのですか?」
フェリクスが嘘を言う可能性もあるが、それでも聞かずにはいられなかった。
しかしフェリクスはミシェルの予想に反し、困ったように目尻を下げた。
「それが、分からないんだ」
「分からない……ですか?」
「そう。ラファエルが落ちたのは王宮の大階段。三階と二階の間からだ。今日は議会の予定だったから、大階段にはそれなりに人がいた。その場にいた者は皆、ラファエルが落ちているところを見ている。──でも、誰もラファエルが落ちた瞬間を見た者はいないんだ」
「それは──」
人が多い場所であれば、たとえ気にしていなかったとしても誰かがその瞬間を見ているものだ。まして突き落とされたのであれば、嫌でも目に止まるだろう。
ならば、自ら足を滑らせたのか。ラファエルがそんなことをするとは思えない。
そしてそのどちらであっても、ラファエルであれば手すりに掴まるなどして大怪我を回避しようとするはずだ。ラファエルが訓練しているところをミシェルは何度も見ているが、その身のこなしは騎士のように洗練されていた。
それが無抵抗のまま一階まで落下するなど、不測の事態が起こったに違いない。
「私もおかしいとは思って、調べさせている。何か分かったら、夫人にも知らせるよ」
「──……ありがとうございます」
「医師も連れてきているから、怪我については彼から聞いて。私は王宮に戻って、もっと色々調べてみる」
ミシェルが重ねて礼を言うと、フェリクスは友人のためだから、と悲しげに微笑んで帰って行った。
王宮医師を待たせていたため、ミシェルは今すぐラファエルの側に行きたい気持ちを堪えて応接間に向かった。
医師は嫌な顔を全くせず、丁寧に話をしてくれた。
曰く、ラファエルは途中から受け身の体勢をとったようで、打撲は身体中にあるが、骨はどこも折れていないらしい。しかし勢いを抑えきれなかったためか頭を強く打って出血しており、いつ目覚めるのかは分からないとのことだ。
ミシェルの側で、執事頭とエマも話を聞いている。
医師は記憶の混濁が起こる可能性もあると念を押して、痛み止めと消毒薬を処方して帰って行った。
医師を見送ったミシェルは、すぐに踵を返してラファエルの寝室まで走った。
驚いたエマが、慌てて後を付いてくる。
ミシェルが立ち止まったのは、寝室の扉の前だった。
「……ミシェル様?」
エマがどうしたのかと声を掛けてくる。
その声に背中を押されて、ミシェルはようやく中へと入った。
何人もの使用人が忙しそうに動き回っている。奥にある寝台で眠っているラファエルを見つけて、ミシェルは引き寄せられるように歩み寄った。
包帯の白さが目に痛い。
青白い顔からは生気が感じられず、呼吸をしていなければ生きていることさえも分からないほどだ。
薄い布団から覗く僅かに上下する胸にミシェルは安堵し、小さく溜息を吐いた。
「──……ラファエル様……」
呼びかけても返事はない。
側にあった椅子を引き寄せ、頽れるように腰掛ける。
「起きて。起きて……ラファエル様」
一緒に眠る寝台では、ミシェルが悪夢に魘されるだけでもラファエルはすぐに目覚めて抱き締めてくれた。あのあわいの色に見つめられると不思議と恐怖もなくなって、穏やかな気持ちになれるのだ。
それを愛という感情だと、理解したのはつい最近のこと。
失うことをより強く恐れるようになったのも同じ頃だ。
これはあいした人だから失いたくない、などという感情ではない。
ラファエルだからこそ、失ってしまったらミシェルはまともでいられる気がしない。
「ごめんなさい」
もしもミシェルがもっと強く問い詰めていたならば、ラファエルは答えてくれただろうか。抱えていた問題を、ミシェルにも共に背負わせてくれたのだろうか。
そうしていたならば、こんなことにはならなかったかもしれない。
ミシェルは後悔と悲しみと不安がない交ぜになったまま、布団を持ち上げてラファエルの右手に触れようとした。
手を繋いでいれば、ラファエル自身もこの場所に繋いでいられるような気がした。




