3章 怪我の原因
「……痛い?」
俯きがちに問いかけたミシェルに、ラファエルは困ったような声を出す。
「うーん、このくらいなら大丈夫だよ」
これはラファエルにとって、このくらいと言ってしまえるような怪我なのだろうか。
ミシェルはラファエルの手を離して口を開く。
大丈夫と言われてしまえば、ミシェルにはそれ以上言えることはない。
フェリエ公爵家について勉強した中に、薬の研究機関もあるとあった。ミシェルが渡された中和剤すら作ることができるような機関だ。
きっと、ラファエルも良い薬を使っているだろう。
でも、心配くらいはさせてほしい。利き手に包帯を巻いたままでは普段通りの食事は難しいだろうから、これくらいのことは。
「……夕食は手に取りやすいものにしてもらうわね」
「ありがとう」
ミシェルはラファエルの手を離した。
「着替えの手伝いはいる?」
「ダミアンがいるから」
ラファエルはそう言って、ダミアンを連れて自室へと向かっていった。
「──ラファエル様の様子、明らかにおかしいわ」
翌日の休憩時間、ミシェルは紅茶を飲みながらそうぼやいた。
美しく整ったコンサバトリーを使わないのも心苦しく、ミシェルはよくここを訪れている。相変わらず季節が狂ってしまっているような白薔薇の温室は、ここだけ時間が止まっているみたいだ。
一緒にいるのがエマだけというのもあり、ミシェルはゆったりとした気持ちでいた。
ミシェルの側に立っていたエマが、困ったように眉を下げる。
「私もそう思いますが……何か事情がおありのようですね」
どうやらエマには、ミシェルに何かを隠したままのラファエルを庇いたい気持ちもあるようだ。ラファエルが隠しているのはミシェルのためだということもあるのだろう。
ミシェルはエマの答えに驚いて、顔を上げた。
思わず笑い声が出てしまうのは、ミシェルにとってはそれが嬉しいことだったからだ。
「ふふ、エマが絆されるなんて。嬉しいわ」
「どういう意味ですか、ミシェル様?」
「だって、エマは街に出れば友人もいるけれど、オードランの屋敷では私以外とは仲が悪かったでしょう」
オードラン伯爵家にいた頃、エマはミシェル以外の家人のことを嫌っていた。使用人達とも仲が悪く、ミシェル以外とまともに会話をしているところなど見たことがなかった。
それが、フェリエ公爵家では大きく変わった。
ララとノエルと仲良く働き、ダミアンのことを認めている。ラファエルのことも、主人として尊敬しているようだ。
それは本来、当然のものとして主人が与えるべき環境だった。
ミシェルがかつてエマに与えてやることができなかったものが、ここにはある。
「それはあの人達がクズだったからです」
エマが吐き捨てるように言う。
「……エマ」
「私は事実しか言っておりませんから」
エマが空になったティーカップに紅茶を注ぎ足す。
ミシェルは揺れる水面を見つめながら、吐き出しそうな溜息を呑み込んだ。
◇ ◇ ◇
「ミシェル、やっぱりおかしいって思ったよね」
ラファエルは執務の手を止めて呟いた。
昨夜のミシェルは、やはりラファエルの怪我を心配していた。
ラファエルとて、流石に誤魔化しきれる怪我だとは思っていない。ミシェルがあれ以上聞いてこなかったからこそ、言わずに済んだのだ。
「それはそうでしょう。普段から間抜けな人間でしたら気にならないのでしょうが」
ダミアンが呆れたように言う。
ラファエルは咄嗟に頭を押さえた。それでは、まるで今のラファエルが間抜けな人間のようだ。
いや、現状間抜けと言われても言い訳はできないのだが。
「……ダミアン」
「いえ、あくまで一例です」
ダミアンが前の発言を一般論にして言い直す。
ラファエルはまた、ダミアンに聞く。
「──いつまで誤魔化せると思う?」
ダミアンはしばらく考えるような仕草をして、口を開いた。
「奥様はよく見ていらっしゃいますからね。ラファエル様がこれ以上被害に遭われなければ、いくらでも誤魔化せますが」
「そうだね」
最初の毒物混入事件から、ラファエルは日に何回も暗殺者の襲撃に遭っていた。相手は金で雇われたらしい破落戸や特殊な薬で操られている貴族など様々だ。
破落戸を雇ったのも、貴族に薬を盛って操ったのも、犯人自身ではなく誰かの影のようだった。エロワ子爵との関わりがあるかもしれないと探らせているが、子爵邸は一部だけ非常に警備が頑丈で、明らかに何かがそこにあることは分かっているからこそ、難航していた。
犯人は影を使っている高貴な人物であり、特殊な毒や薬を手に入れることができる立場にいる。いっそラファエル自身ならば全部可能だと思ってしまうのは、疲れているからだろうか。
最初は毒だった。
次は弓矢だ。咄嗟に避けたが、軸を握ったときに手が切れてしまった。
その次は短剣を持った破落戸だった。咄嗟に剣で切ってしまい、返り血が服にべったりと付いて着替えることになった。
更にその次は薬で操られた近衛騎士。こちらもやはり返り血が付いた。
そして昨日は、どこからか飛んできた投げナイフを手でうっかり手で掴んで止めてしまったのだ。刃の表面には毒が塗ってあったため、中和剤を使った。
当然ナイフを握ってしまった手はそれなりに深く切れ、手当てされる必要があった。
護衛が対処できなかった分だけでも、これだけある。相手は相当厄介な人物で間違いないだろう。
「あと一週間もあれば、毒の研究もエロワ子爵の調査結果も揃うんだけどな」
結果が出るまで一週間。
そこまでどうにか、ミシェルを巻き込まずにいたい。
「では、今以上に気を付けてくださいませ」
ダミアンの言葉に、ラファエルは自身に言い聞かせるようにしっかりと頷いた。




