3章 休息の取り方
◇ ◇ ◇
「もう。酷いわ、ラファエル様ったら」
「本当ですよ。ミシェル様が一晩看病してあげているのに、黙って出仕されるなんて」
ミシェルが吐いた言葉にエマが同意する。
ミシェルは苦笑して、手元の書類に目を落とした。今は、屋敷の中のことについての資金状況が書かれた帳簿をつけているところだ。
このフェリエ公爵家には、合計で百人以上の使用人がいる。帳簿とその元となる書類には、彼等への給与や臨時報酬、屋敷の維持費、ミシェルやラファエルの生活品の買い求め等、細かな数字が並んでいる。
ちなみに、もう一つある帳簿は公爵家のものだ。公爵領の運営についてやラファエルの仕事に必要な影と護衛への報酬等が書かれており、こちらはラファエルが管理している。
これまでは今ミシェルがつけている帳簿もラファエルがやっていたということなので、その負担はどれほどのものだっただろう。
女主人がいない家というのは、なかなか大変だ。
「そうよね。酷い人なんだから」
ミシェルは感じていた怒りもそのままに、次々と数字を書き入れていった。ミシェルの場合、鬱々と悩んでいるよりも仕事や掃除をしてしまった方が感情の整理ができる。
ラファエルは、明け方まで看病をしていたミシェルをどう思っているのか。
ようやく熱が下がったと安心して椅子で眠りに落ちたはずなのに、目が覚めたら昼近い時間で、ラファエルが寝ていたはずの寝台を使っていたなんて。しかもラファエルはいつもよりも早い時間に出仕してしまったなんて。
本当は、今日くらいゆっくり過ごしていて欲しいのに。
ミシェルは行き場のない不満を仕事をすることで解消していった。
すると、やがて怒りは収まってきて、代わりに浮かんできたのは疑問だった。
「……でも、なんであんな熱を出されたのかしら」
「ミシェル様?」
エマがミシェルの独り言を聞き返す。
ミシェルはようやく書類から顔を上げ、手を止めた。
「ラファエル様のお熱、ただの風邪じゃないと思うの。咳も無かったし。疲労とかかしら」
「公爵家の当主って、大変そうですもんね」
エマが納得したように頷く。
ただの風邪なら、発熱以外にも症状があるのが普通だ。しかし昨日のラファエルは、純粋に高熱で倒れていた。
触れただけで分かるほど高かった熱が一晩で治ってしまうことも驚きだが、何よりミシェルが気にしているのはラファエルの疲労についてである。
「そうよね。何かゆっくり休んでもらえる方法があれば良いのだけど」
公爵家の当主というのも、王子達の補佐役も、どちらも大変なことで、責任の重い仕事だろう。できればこの屋敷の中では、休息できたら良いのだが。
そう思ったミシェルの言葉に、エマは楽しげに笑った。
「それなら、ミシェル様が抱き締めてあげれば良いじゃないですか」
「えっ!?」
慌てて問い返したミシェルに、エマは揶揄いを含んだ、しかし案外真面目な表情で繰り返す。
「ミシェル様からのスキンシップが、一番旦那様の疲れが取れるのでは?」
ミシェルはラファエルのことを思った。
栄養のある食事は料理人が作ってくれている。睡眠時間は短めだが、身体を壊すほどではないだろう。だとしたら、疲れは精神的なものがほとんどなのかもしれない。
だとしたら、ミシェルからの触れ合いがラファエルの疲労を取ることに有効かもしれない、というエマの意見は正しいような気がしてくる。
「そ、そうね……考えておくわ」
ミシェルは曖昧に笑って、また書類に目を落とした。
その日の夕刻、ラファエルは普段と同じくらいの時間に帰宅した。
ミシェルは二階の踊り場から様子を窺う。ラファエルはいつも通りの微笑みを浮かべているが、やはりどこか疲れているように見えた。
「おかえりなさい、ラファエル様」
ミシェルが階段を下りながら声を掛けると、ラファエルははっと顔を上げた。その表情は先程までの作られた微笑みではなく、本物の笑顔のようだ。
これは、エマが言ったことを試す良い機会かもしれない。
ミシェルは早足でラファエルの元へ歩み寄ると、そのままぎゅうと腰に腕を回して抱き付いた。
ラファエルが驚いたように動きを止める。
「ただいま、ミシェル。……ミシェル?」
明らかに困惑しているラファエルに、ミシェルは至近距離から顔を見上げた。
頬が熱いような気がするのは恥ずかしいからだ。こんなこと、これまでにしたことがない。
それでも抱き締める腕を僅かに強め、ミシェルは僅かに首を傾げる。
「こうしたら、ラファエル様の疲れが取れるのではと思って」
言うと、すぐにラファエルの両腕がミシェルの背中に回され、抱き締め返された。ミシェルの顔は、ラファエルの胸に押しつけられてしまう。
頭上から盛大な溜息が聞こえてくるのは気のせいではない。
「──……吹き込んだのはノエル? ララ? いや、エマかな」
「エマよ。……ラファエル様は嬉しくない?」
「いや、嬉しいよ」
ミシェルがもぞもぞと動くと、ラファエルが腕の力を緩めてくれる。
ようやくできた隙間からラファエルの顔を見ると、僅かに頬が赤くなっていた。それは、昨夜の熱のときの顔色ともまた違う。確かに喜んでいるように見えた。
「なんだか、予想外だったから照れてしまって」
「え?」
ミシェルが聞き返すと、ラファエルはまたミシェルを強く抱き締めた。




