2章 ミシェルに求められたこと
デジレ以外の誰かとこんなに楽しく会話をしたのは久し振りだった。もしかしたら、母親と話をして以来だったかもしれない。
ミシェルはエマに言われるがまま、鏡台の前に腰を下ろした。エマが透明の瓶を取り、化粧水をそっとミシェルの顔に広げていく。
「化粧品はあるのね」
「こんなの、ある内に入りませんよ」
ミシェルは首を振りたくなるのを堪えた。
バルテレミー伯爵家では、ミシェルに自由になる金銭はなかった。当然化粧品など、使ってすらいなかった。
元々肌が強かったからかあまり目立たないが、今も両の手の平はあかぎれだらけである。
「──お兄様は、私を令嬢として育てるつもりなのね」
侍女をつけ、ナタリアの中古品とはいえドレスや靴を与え、化粧品を用意し、家庭教師の授業を受けさせる。それは、伯爵令嬢らしくなれという意思表示だ。
しかし用意されるものを見る限り、ミシェルには必要以上の金銭を使いたくないのだということも分かる。
「ミシェル様はオードラン伯爵家の令嬢ですよね?」
「私は」
ミシェルは続ける言葉に迷った。
これまでミシェルは、イザベルとリアーヌの『おもちゃ』だった。バルテレミー伯爵家の『奴隷使用人』だった。どちらも、もう名乗らなくて良い。
代わりに、今のミシェルが名乗れるものは一つしかない。
「私は……お兄様の妹よ」
結局、縋れるものはアランとの血縁だけだった。
薄く化粧をして、髪を整えていく。母親と同じふわふわの茶色い髪はミシェルのお気に入りだが、癖が強く、思うように纏められない。イザベルとリアーヌを不機嫌にさせるのも嫌で、一度無理矢理切られてからは肩口で切りそろえてしまっていた。
それをエマは丁寧に湿ったタオルで癖を落ち着け、シンプルなリボンを使ってハーフアップに纏めていく。
着替えをすると、髪の長さこそ足りないものの、随分令嬢らしく見えた。
「ミシェル様、お綺麗です。ドレスが合っていないのが悔やまれます……!!」
エマは本当に悔しそうにミシェルを見ている。
ミシェルのドレスはペチコートの長さの足りない分を全て腰のリボンで誤魔化してしまったため、何とも野暮ったい印象に見える。まだ胸が育っておらず、背も低いので余計にそう見えてしまうのだろう。
しかし、とりあえず食事と家庭教師の授業はどうにかなりそうだ。
「ありがとう、エマ。そろそろ食事に行かなければね」
「ええ。参りましょう」
ミシェルは時計を見て、すぐに部屋を出た。まだ時間に余裕はあるが、待たせない方が賢明だろう。
階段を下りて、食堂へ。まだ誰もいないそこで、ミシェルは使用人に促されて入り口近くの椅子に座った。案内のためについてきたエマが、ミシェルの部屋に戻っていく。
「それでね、アラン。王妃様が使われていた髪飾りが素敵だと、エミィ様が言っていて──」
廊下からナタリアの声が聞こえてきて、ミシェルは慌てて立ち上がった。
「王妃様の髪飾りか。どこのものだか分かる?」
「確か、隣国の工房のものだって聞いたわ」
「そうか。早速取り寄せてみよう」
「嬉しい! ありがとう、アラン」
「私こそ、ナタリアの話にいつも助けられているよ」
ナタリアとアランが寄り添って食堂に入ってくるのを、ミシェルは頭を下げて迎えた。
ナタリアが興味なさそうに一瞥し、アランの腕を引く。アランは立ち止まることもせずに家長が座る奥の席へと腰を下ろした。
それを合図に、食事が運ばれてくる。
ミシェルは会話をしながら楽しそうに食事をしている二人を横目に、無言で食事を進めた。
オードラン伯爵家の食事は、最近のバルテレミー伯爵家で家人が食べていた食事よりも少しだけ豪華だった。そもそもあの家では、ミシェルが家人と同じものを食べることなどほとんどなかったのだが。
「──お前は、食事のマナーは習っていたのか」
突然声をかけられてはっと顔を上げると、アランがミシェルの食事姿を観察するようにじっと見ていた。ミシェルは暖かみのない声と瞳にぞくりとした寒気を感じつつ、落ち着いて口を開く。
「イザベル様とリアーヌ様に、ご教授いただきました」
言葉選びには、とても注意した。
イザベルとリアーヌは、ミシェルと食事をしたがることがあった。正しいマナーで食事ができないミシェルを嘲笑うためだ。
ミシェルはそんな二人を見ながら、少しずつ食べ方を学んでいた。パンの食べ方、スープの飲み方、食器の戻し方──そうして学んだミシェルに対して、嫌がらせは酷くなった。
とても普通の人間が食べるようなものではないものを食べるように強要されるようになったのだ。イザベルとリアーヌは、その辺の雑草を採ってきて、ミシェルに無理に食べさせようとした。
あんなことになるならば正しいマナーなど身につけなければ良かったと、何度後悔しただろう。
「出されるものは、残さず食べなさい。まずはその貧相な身体と髪をどうにかしなさい」
アランの言葉を聞いたナタリアが、ミシェルに勝ち誇った笑みを向ける。しかしミシェルも、今更そんな態度で傷付くほど殊勝な性格でもなかった。
自分の部屋があり、三食食べることができ、服があり、侍女までいる。この程度の嫌がらせは大したことではない。
「はい。分かりました」
確かにアランの言う通り、これまで少ない食事で働いてきたミシェルには、女性らしい丸みはどこにもない。それどころか、腕と足は小枝のように細く、普通の平民の子供達よりも頼りなげに見えるだろう。
こればかりは一生懸命ドレスで誤魔化しても、どうにもならない状態だった。




