2章 現実逃避であることは
ラファエル視点です。
◇ ◇ ◇
ラファエルは王宮の自分の執務室で、書類の山を片付けながら溜息を吐いた。
ダミアンが訝しげな目を向けてくる。
「どうしたんです、旦那様」
「いや……もう全部放り投げて、ミシェルと二人で旅行にでも行けたらと思ってね」
ラファエルは机の上の書類の山を少しずつ減らす作業を朝からずっと続けていたせいで固まった背中を和らげるように思いきり両腕を伸ばした。
この仕事も、パトリックのことも、ミシェルの両親の問題も全部放り出して、ミシェルと二人で、互い以外に誰も二人のことを知らない外国にでも旅行をしたい。
きっとミシェルは狭い世界で生きてきたから、小さなことにも新鮮な反応をくれるに違いない。毎日手を繋いで街を歩いて、ときには共に馬に乗って、そうして夜は互いの体温を分け合い眠るのだ。
それができたら、どんなに良いだろう。
現実逃避であることは、誰に言われなくても自分が一番良く分かっている。
「それ、奥様には言わない方がよろしいと思いますが」
「そうだね、ミシェルは真面目な子だから……あれ、ダミアン。いつの間にミシェルを奥様って言うようになったの?」
ラファエルに適当な相槌を打ったダミアンの『奥様』という言葉が気になった。以前は『奥方様』と言っていたように思うのだが。
「……ラファエル様が、ミシェル様に告白された後ですよ」
「ああ、そういうことか」
ダミアンはこれまで、ミシェルのことを同情はしつつも『ラファエルの妻』として記号的に見ていたのだ。しかし、ラファエルが心を許し、ミシェル本人が公爵家の女主人として頑張っている姿を見て、使用人としてミシェルを認めるようになったのだろう。
ダミアンの家は代々フェリエ公爵家に仕えている。そのダミアンの心を動かしたのだから、ミシェルの努力はどれだけのものであったのか。
ラファエルが手を休めたからか、ダミアンも仕事の手を止め、部屋の外にいる使用人に茶器と湯を持ってくるように頼んでいる。紅茶を淹れようとしてくれているのだろう。
扉を閉めたダミアンが、ラファエルに向き直る。
「ご両親のことは、まだ分からないのですか?」
ラファエルは執務机の鍵付きの抽斗を開け、中から紙を取りだした。
「分からないね。でも、エステル様に自由がなかったというのは本当のことのようだ」
「社交界での話は、広がりやすいですからね」
「そうだね。それと……ああいや、これは今の時点で分かっていることなんだけどね」
紙には、走り書きのような文字が並んでいる。公爵家の影達が調べてくれた情報だ。
そこには、確定した真実といくつもの噂話が区別されて書かれていた。
曖昧なものは普段は報告させないのだが、今回は昔のことを調べるため、あえて噂話であっても報告するように頼んでいる。
まだ事実であると分かっていることは少ない。しかし、何もないということでもなかった。
「エロワ子爵とエステル様は、元々許嫁の関係だったらしいね」
エロワ子爵家は、ミシェルの母エステルの実家だ。先代エロワ子爵には子供がエステル一人だけで、エステルの従弟であるパトリックを養子とし、後継に指名した。
先代がパトリックを養子として迎え入れたのは、エステルが結婚した後のことだ。
「……それが自然ですね」
「あれ、驚かない?」
「娘がいるのならば婿養子をとるのが基本だということですよね」
「そうだよ。……だから、二人の間に何か特別な感情があったとしてもおかしくはないんだ」
「ですが、全ての許嫁の間に恋心があるわけではないでしょう」
「……少なくともエロワ子爵には、あったようだけどね」
それは社交界でも有名だったらしい。
今から二十年以上前の社交界で花と称されていたエステルと、その隣を離れないパトリック。特にエステルを狙う貴族令息は多かったため、話題にもなっていた。
他の男性とのダンスを勝手に断る。
休憩室の前までついていく徹底した護衛っぷり。
何より、エステルを見つめる熱い視線がその感情を物語っていた。
そしてその噂話は、必ず『エステルはあの男に恋をすることはないだろう』で終わる。どうやら、エステルは従弟としてパトリックを扱い、許嫁の関係も家のためにして当然のものだと捉えていたようだ。
ラファエルが持っている調査書に目を向けたダミアンが眉間に皺を寄せた。
「うわ、多いですね」
しかしラファエルは、話をここで終わらせるつもりがなかった。もう一つ、ダミアンには知っておいて貰わなければならないことがある。
「それと、これも見て欲しい」
ラファエルは先程の調査書と一緒に抽斗から取り出した小さめの手紙を手に取った。
そのとき、扉が外側から軽く叩かれた。どうやら茶器と湯の支度ができたらしい。届けられた移動台だけを受け取って、ダミアンには部屋の鍵を掛けさせた。
ラファエルは、紅茶が淹れ終わるのを待つことにする。うっかりダミアンに火傷などをさせてしまったら、後々大変になるのはラファエルだ。
ちょうど五分ほどで淹れ終わったようで、ダミアンがティーカップの片方をラファエルの執務机に置いた。




