1章 ふたりきり
「ふ……、んっ。ラファエル。様……」
口付けの合間から名前を呼ぶと、ようやくラファエルが離れていく。少し申し訳なさげな表情が可愛いだなんて、どうして思うのだろう。
自分の気持ちなのに、よく分からない。
違う。分からない振りをしていただけだ。
「ごめん、少しやり過ぎたね」
ミシェルを抱き締めていた腕が、離れていく。
離れてしまうのが嫌で、今度はミシェルが追いかけるようにラファエルの背に腕を回した。大きな背中は、ミシェルが頑張って手を伸ばしても、きっと簡単に振りほどけてしまうのだろう。
しかしラファエルはそうしなかった。
椅子から落ちたミシェルも、絨毯の上に膝立ちになっている。
「……ミシェル?」
「ラファエル様」
ミシェルは覚悟を決めた。
触れたくて、触れられたい。
健全な夫婦生活の、一歩先。
それを普段のラファエルは、あえてミシェルに迫ってこない。
ミシェルはラファエルの首に腕を回す。そのまま、今度はミシェルがラファエルの唇を奪った。
「っちょ、君──」
ラファエルが慌てている。
それでも気にせず、ミシェルはラファエルの唇を舌先で軽くつついてみる。僅かに開いた隙間から、そっと舌を入り込ませる。
動かし方は分からなくても、動かすことは知っていた。
稚拙な舌の動きに我慢ができなくなったのか、やがてミシェルの舌を押しのけるようにして、ラファエルのそれが口内に入ってきた。そっと歯列をなぞった舌が、少しずつミシェルの舌に絡んでいく。
「は、……ふぁ」
こんなの知らない。キスがこんなに甘く蕩けるようなものだなんて。
呼吸の仕方が分からないままミシェルの意識がぼうっとしてきた頃、ようやくラファエルの顔が離れていく。
濡れた唇を拭うようにぺろりと動かされた赤い舌が、妙に官能的に見えた。
「……あまり私を煽らないで、ミシェル。これでも我慢しているんだ」
誘ったのはミシェルだ。ラファエルではない。
今ラファエルを求めているのも、ミシェルだ。
こんなにも煩い鼓動が、火照った頬が、そしてラファエルから離れたくないと縋る腕が、その全てが、ラファエルをもっと近くに感じたいと言っている。
「本当は……最初から、心の準備はできていたの。ただ、言い出す勇気が無かっただけ」
ミシェルの言葉に、ラファエルが目を見開いた。
「それは……」
「こんなことを言うなんて、はしたないと思われてしまうかもしれないわ。でも」
ミシェルは僅かに目を伏せた。
まだ恐怖心が無くなったわけではない。
でも、それでも。どうしても、確かな繋がりが欲しかった。
「私の全部を、ラファエル様のものにしてほしいの」
ラファエルの目尻に朱が混じる。
流石のラファエルも動揺しているらしい。しかし、それも仕方の無いことだ。ミシェルを尊重するということは、決定権をミシェルに明け渡すことでもある。
だから、ずっと、ミシェルは恥ずかしかった。
「──……ミシェル」
ラファエルがミシェルを抱き締める腕の力を強める。ぎゅっと抱き締められて痛いくらいだ。その苦しさを受け入れるのは、ラファエルにミシェルをもっと近くに感じて欲しいから。
そして、ミシェルの存在を、深く刻み込みたいからだ。
「ラファエル、様……っ」
喘ぐように呼吸をすると、ラファエルがミシェルをそっと離した。寂しさを感じたのは僅かの間で、すぐにミシェルの視界がぐるりと回る。抱き上げられたのだと理解して、ミシェルはラファエルの胸に顔を埋めた。
そのまま執務室の明かりも消さずに、ラファエルは奥の部屋へと移動していく。
「あ……明かりが」
「ダミアンが消すよ、大丈夫」
「でも」
「心配しなくて良いよ」
扉を三枚くぐった先は、いつも二人で眠っているミシェルの寝室だ。エマ達が支度してくれていたお陰で、部屋は過ごしやすい温度に保たれ、後は眠るだけの状態になっている。
ぽすん、と下ろされた場所は寝台の上だ。背中でその感触を受け止めて、ミシェルはラファエルを見上げる。
「怖くなったら、言って。優しくするからね」
窓から漏れ入る月明かりが、横顔を薄く照らしている。
暗がりの中で、色すら分からなくなった瞳の中に、確かに熱い想いが燃えていた。
「ラファエル様……」
囁くように名前を呼べば、口付けが額に降ってくる。
頬に、鼻に、唇に。次々に落ちてくるその一つ一つが、ミシェルへの愛しさを伝えてくれているかのようだ。
心が少しずつ、少しずつ満たされていって、ついに溢れた滴がミシェルの瞳から零れ落ちた。
「どうして泣いているの?」
ラファエルの指先が、溢れたばかりの涙を掬い上げる。
ミシェルは涙を止めるつもりもないまま、幸福感に任せて微笑んだ。
「ラファエル様が、愛しくて……」
伸ばした手で頬に触れると、ラファエルが小さく肩を揺らした。
その手に重ねられた手が温かくて、胸がはち切れてしまいそうに痛む。
「──ミシェル、愛してるよ」
「私も、あいしているわ。……ずっと、貴方だけ」
触れては離れて、繰り返し降ってくる口付けは、ミシェルの体温を上げていく。
気付けば胸元ははだけ、素肌にラファエルの手が触れていた。
嬉しかった。
もっと、もっと側で感じていたい。
その夜、ミシェルはラファエルの名前を何度も呼んだ。




