1章 分からないこと
揺れていた視界がはっきりとしてくる。その中心に映るラファエルはミシェルを気遣うように眉を下げていた。
この人にこんな表情をさせているのはミシェルだ。
「それは違うよ、ミシェル」
ラファエルがミシェルの手を痛いくらいに握っている。
「でも、エロワ子爵は……」
「これは子爵の主張だ。セルジュ殿が書いた返事はここにはない。……本当のことは分からないままだ」
パトリックの主張は、ミシェルが自分の娘だから返せ、というものだ。
これが正しければ、エステルはセルジュと結婚しアランを産んだ後、パトリックと不貞行為をし、ミシェルをオードラン伯爵家の娘として産んだことになる。
これが公的に認められれば、ミシェルは伯爵令嬢ですらなくなってしまう。
「でも」
オードラン伯爵家でアランから与えられた膨大な教育に耐えられたのは、ミシェルを伯爵令嬢として育てようとした母の気持ちがミシェルの中にあったからだ。エステルはどんなにアランがミシェルに興味を抱かなくても、オードラン伯爵家が貧しくても、ミシェルをきちんと教育してくれていた。
もしかしたら、あれは、本当に愛する人との間に生まれたミシェルを特別扱いしていたものなのかもしれない。
そうして亡き母親に疑いの気持ちを持つことすらも、汚らわしいことかもしれない。
故人に口は無く、答えが分からない。
ミシェルの思い出の中にある、小さな優しい記憶。それすら汚されてしまったら、どうしたら良いのだろう。
心の奥の奥にある柔らかな部分が、痛いと悲鳴を上げていた。
ラファエルが立ち上がって、ミシェルの手からまだ握ったままでいた紙の束を抜き取った。代わりに、そちらの手もそっと握りしめられる。
冷え切った両手の指先が、ラファエルの手によって強制的に少しずつ温められていく。
「私は、ミシェルが誰の娘であっても構わないよ。勿論、ラシュレー侯爵も。だからそう思い詰めることはないんだ」
ラファエルの瞳はまっすぐで、自分の正体すら分からないミシェルの心は簡単に揺れた。
「私がミシェルと出会ったとき、ミシェルはオードランの名を名乗っていなかった。だから、私にとっては最初から、ミシェルはミシェルだ。それは、変わらないよ」
「でも、もし……もし、この手紙が本当のことだったら」
パトリックがミシェルに会おうとしているのは、実の娘を側に置きたい──または、父と娘としての会話がしたいからである。
ならば、娘であるミシェルが会いたくないと思うことはいけないことではないのだろうか。
「本当のことでも、何も変わらないよ」
ラファエルの両手がミシェルの手を離す。次の瞬間には、ミシェルはもうラファエルの腕の中にいた。広い胸がミシェルを受け入れて、そっと包んでくれている。
一定のリズムを刻む鼓動の音が、少しずつミシェルを落ち着かせていく。ミシェルは目を閉じ、散らばってしまった思考を少しずつ片付けていった。
「私はね、ミシェル。君が幸せでいるための選択なら、力を貸すよ。でも、自分を安売りするようなことだけはいけない。私は君を大切にしたいんだって、何度も言っているでしょう」
ミシェルは目を開けて、ラファエルの表情を窺った。
ラファエルは柔らかな表情でミシェルを見つめている。それは作られた仮面の微笑みではない。穏やかで、優しい、ミシェルを心から想ってくれている表情だ。
その夕暮れ色のアメジストの瞳の中に、ミシェルがいる。
眉が下がった、情けない顔だ。寝支度をしているせいで背中に流していた髪が、ラファエルの腕で僅かに乱れている。
「私は……迷っていても良いの?」
「良いよ。その方が私もありがたいかな。再来週には調査も終わる頃だ。エロワ子爵のことと、ミシェルの母上と父上の事情も調べさせているから。結果を聞いてからの方が、都合が良いと思わない?」
ラファエルは、手紙の内容の真偽についても調べてくれている。再来週には結果が出るというのならば、内容を知ってから会うかどうか決めても遅くない。
この話をしてくれたのは、ラファエルがミシェルの悩みを取り除こうとしてくれたからだろう。今悩む必要は無い、隠さずに話をするからと、ラファエルは言外に言っている。ミシェルの問題に向き合おうとしてくれているのだ。
ミシェルはラファエルの心遣いをありがたく思いながら頷く。
「ありがとう、ラファエル様」
瞳に映るミシェルは、もう不安げな顔はしていなかった。
その代わり、余計にラファエルに抱き締められているという状況を強く意識してしまう。
顔が近い。椅子に座っているミシェルを抱き締めるため、ラファエルが膝立ちになってくれていたのだ。気が付いても、今更立ち上がって抱き合い直すことは難しい。
離れてしまうのも、嫌だった。
目を逸らせないまま止まってしまったミシェルの時間を動かすように、軽く目を伏せたラファエルの顔が近付いてくる。
キスをされる、と思うよりも早く、ラファエルの唇がミシェルのそれに触れた。柔らかな感触に、ミシェルもようやく目を閉じる。
一度離れた唇が、今度は優しく食むように重ねられた。




