1章 泣かなくても良いように
「え?」
咄嗟にミシェルが聞き返すと、ラファエルは目を細めて、困ったように微笑んだ。
「ミシェルが泣くのを見るのは嫌だな。できれば、ずっと、今みたいに笑っていてほしい」
ラファエルの言葉が、ミシェルの心にすうっと染み込んでくる。
ずっと、こんな言葉が欲しかった。
ラファエルに出会うまで、家族の誰からも言われたことがなかった言葉だ。エマ以外の人から幸せを願われたことなんてなかった。デジレも気遣ってくれていたけれど、当時はバルテレミー伯爵の目があって、あまり親しく話すこともできなかった。
だからこそ、ミシェルが初めて恋をした相手であり、家族になったラファエルが、いつだってミシェルの幸福を願ってくれていることにが嬉しくて仕方ない。
ミシェルは緩く首を振った。
「──……それなら私、もう泣かないわ」
「ああ、ごめんね。そうじゃないんだ。辛いときは泣いて良いんだよ。だから、これは私の気持ち……かな」
「気持ち?」
ラファエルが照れたように笑って、食事を再開する。
ミシェルも豆のスープに口をつけた。
「ミシェルを幸せにするって、言ったよね。ミシェルが泣かなくても良いようにしたいと思ってるんだ」
何でもない日常会話のようにラファエルが話すから、ミシェルも食事の手を止めることはできなかった。
「もう、ラファエル様ったら、大袈裟よ」
「うん。そうだね」
食事はやはりどれもとても美味しい。
心が満たされているからか、このコテージが素敵だからか、デジレの料理の腕が良いからか。その全てなのかもしれないが、邸で食べる食事よりもずっと美味しく感じた。
食事を終えたミシェルとラファエルは、バルコニーで休憩をすることにした。
湖にせり出すようにして作られたバルコニーは、景色がとても美しい。用意されたティーテーブルからでも、日光を反射して輝く湖面がよく見えた。
「──ラファエル様。今日は、本当にありがとう」
ミシェルは紅茶を一口飲んで、そっとソーサーに戻した。
「いや、私もミシェルとこうして過ごせて嬉しいよ。いつも家のことをやってくれているお陰で、私も助かっているし。こちらこそ、なかなか二人の時間をとれなくてごめんね」
「そんなこと!」
ミシェルは、ラファエルからこれ以上なく良くしてもらっている。フェリエ公爵家に来てから知った様々なこと、体験したいくつもの幸せと、知らなかった場所。
そのどれもは、ラファエルの優しさによってミシェルに与えられているものだ。
「いつも気遣ってくれるから、私、感謝しているのよ。そんな言い方はなさらないで」
「……ありがとう。ミシェルは優しいね」
ラファエルが紅茶に合わせて用意されていた小さな砂糖菓子を摘まむ。追いかけるように紅茶を飲んで、すうっと視線を湖に向けた。
ミシェルから目を逸らしたのは、わざとだろう。
「でも私も、今日まで逃げてきたんだ」
「ラファエル様?」
「ミシェルの悩み……きっとエロワ子爵のことだよね」
伏せられた紫色の瞳が、またミシェルの瞳を射貫く。
ミシェルは誤魔化すつもりもなく、素直に頷いた。
「……ええ。髪や瞳の色はよく似ているので、親戚だということは疑っていないのだけど。正直、気味が悪いというか、あまり関わりたくはないと思ってしまって。でも、夜会の度に変な視線を気にするのも嫌なの。それに……断ったら、ラファエル様に悪い噂が流れてしまうかもしれませんわ」
貴族の世界というものは何かと家のことや慣習に煩く、それを守らない者には冷たい面がある。
今回の場合、ミシェルがラシュレー侯爵家の養子になっていて、オードラン伯爵家が没落しているからといって、それで亡き母の実家であるエロワ子爵家との縁が切れたとは言えないことが問題だった。
オードラン伯爵の血族であれば、まだ良かった。犯罪によって取り潰された伯爵家の縁者など、ラファエルが面会を断っても問題にはならない。
しかしエロワ子爵家は違う。これまで実直に領主として努めてきた家の者を、無碍にすることは躊躇われる。
国の有力貴族であるフェリエ公爵家だからこそ、下級貴族であっても優しく接する平等で高潔な人物でいなければならないのだ。
まして、ミシェルが気にしている視線の主もパトリックだとは確定していない。それがパトリックのものであれば、断ることもできたのに。
現状、ミシェルが我慢をしてパトリックに会えば済むことだということは理解している。
ラファエルが小さく唸った。
「何も言わせないこともできるけれど」
ミシェルはまた首を振って、思わず苦笑した。
少し気を抜くと、ラファエルはすぐにミシェルを甘やかそうとする。
「それでも、私の親族にばかり悪い話が出ることは避けた方が良いのは間違いないわ」
オードラン伯爵であるアランが引き起こした不祥事と、バルテレミー伯爵の悪事の露見によって、周囲からはミシェルが関わった家が次々に没落しているように見えてしまっているだろう。
エロワ子爵に何もなければ良いが、ミシェルに向けられる視線は平和的なものではなかったように思う。そうであれば、面会することこそが新たな事件の火種になってしまうかもしれない。
それもまた、ミシェルの不安の種だった。




