宣旨
ハンムラビ法典の石碑上部には、王権神授を示す浮彫があり、ハンムラビ王と見られる人物が、王権を示す物差しと巻尺を神から授かっている。この物差しは、しばしば『王笏』とされるけれども、実は目盛りが刻まれた『尺』である。国を治める王として「功罪の大小を量れ」と教えられる図である。対して王は肘を差し出し『尺』を示す。後に物差しが天秤に替わり、罪の軽重を量るものとなった。
この神は太陽神シャマシュとしてメソポタミア一般に知られた姿をしているため、「正義の神シャマシュが創り与えた法典」と解釈されている。しかし序文を読む限り、ハンムラビ王が正義の神と称えたのはマルドゥク(バビロン守護神)。
では何故シャマシュ神の姿なのかと言えば、この石碑が、シャマシュの都市シッパルに置くものだったからであろう。当時のバビロニアは都市ごとに異なった守護神を奉じていた。ならば征服後も各都市に指示を出すには、各守護神の名を借りる必要があったのではないか。序文後半にバビロニア各都市を列挙し、各神殿に与えた業績を記すのは、必要があっての事であろう。
天皇陛下がマッカーサー司令官と並んだ写真は、戦後の日本国民に大変な衝撃であったらしい。都市の守護神が、その王権を他国の者に譲るという構図は、それ以上のものだったのではないか。
この考えが正しければ、シャマシュ以外の守護神を彫ったハンムラビ法典が別に有りそうなものだが、今までそのような物は見つかっていない。
なお、バビロニアは北部のアッカドと南部のシュメールを併せたもので、メソポタミアすなわちチグリス・ユーフラテス両河に跨る下流域を指す。バグダードからペルシャ湾に及ぶ沖積平野に当たるので、全域が現イラク国内に含まれ、植生および農耕の諸条件は日本のそれと大きく異なる。
いと高きアヌ即ちアヌンナキの王と、
ベル即ち当地に運命下し給ふ天地の主、
マルドゥク即ちエアの太子にして正義の神に、地上の者統べる王権賜り、イギギの中に際立つものと為し給ひてより、
バビロンはその輝かしき名もて呼ばはれ、地上に際立つものと為され、久遠なる王国こゝに立てり、そが礎、天地の基ほどにも堅く築かれたり。
かくてアヌとベルは朕を號け給へり、神を畏む高貴なる王ハンムラビと。この国に正義の法を齎し、邪悪な者、悪を行う者を滅ぼさむが為。
故、強者が弱者を傷つけぬやう、黒頭の民を治むること天高くシャマシュの焦がせるやう、この国に光為し、人々の福をより増さむ。
When Anu the Sublime, King of the Anunaki, and Bel, the lord of Heaven and earth, who decreed the fate of the land, assigned to Marduk, the over-ruling son of Ea, God of righteousness, dominion over earthly man, and made him great among the Igigi, they called Babylon by his illustrious name, made it great on earth, and founded an everlasting kingdom in it, whose foundations are laid so solidly as those of heaven and earth; then Anu and Bel called by name me, Hammurabi, the exalted prince, who feared God, to bring about the rule of righteousness in the land, to destroy the wicked and the evil-doers; so that the strong should not harm the weak; so that I should rule over the black-headed people like Shamash, and enlighten the land, to further the well-being of mankind.
Anu:メソポタミア神話の天空神、創造主にして最高神。都市ウルクの守護神でもある。大地の女神 Ki を妻とした。早々に隠居し、一般に至高神とは認識されない。
Anunaki:アヌとキの子孫である上級神族をいう。人間の運命を司る。
Bel:ベイル又はバアル。「主」を意味し、その当時の至高神を称していう。従って中の人はエンリルであったりマルドゥクであったりする。本書ではマルドゥクを別人扱いするので、このベイルはエンリルを指すと考えられる。
Marduk:バビロンの都市神。木星の守護神、太陽神、呪術神と、多面的な神格を持ち合わせ、嵐と雷、洪水を武器とし、雷の象徴たる三叉戟を持つ姿は、破壊神シヴァ若しくはルドラを彷彿させる。バビロニア国の神となり、ベイルと呼ばれた。
マルドゥクの名は、旧約聖書では『メロダク』とされ、刃向かって捕えられたユダの王エホヤキンを釈放している。叛逆を赦してやったのに、
「国々のうちに告げ、また触れ示せよ、旗を立てて、隠すことなく触れ示して言え、『バビロンは取られ、ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれ、その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれる』と。(エレミヤ書第50章 2節)と、散々な言われようである。
Ea:都市エリドゥの神。シュメール語では Enki。淡水を司る水神、マルドゥクの父。
Igigi:アヌンナキの配下である下級神族。
Babylon:バビロニアの首都。聖書に於て『バビロン捕囚』の実行犯にして頽廃の象徴のように言われ、目の敵にされる。実際のところ、カナンへ帰郷したユダヤ人指導者としては「先進地バビロンで高待遇を受けた」とは言えなかったのであろう。
Hammurabi, the exalted prince:英訳者は母国の制に擬し、King と区別して prince としている。これは「公」と訳される地位に当たるが、ハンムラビその人より上位の人はなく、「王」と訳しておく。
「ハンムラビ」の名の由来としては「おじさん」が有力らしいが。「おっさんだぞ王」とか名乗って戦う相手も気が抜けてしまったということなのか…
the black-headed people:シュメール人は自らを「シュメール人」とは呼ばず、「黒頭人」と称した。その意味はよく解っていない。ただ、この一文は「黒髪」「日に焼けた者」の意を含むと思われる。
Shamash:メソポタミアの太陽神。シュメール語では Ud。シッパルの守護神。イシュタルの双子とされ、女神であったのが、男神に転化した。昼は地上を、夜は地下を照らすので、冥界の神でもある。正義の神であり、法典をハンムラビ王に与えたとも言われるが、この序文に出てくるシャマシュは日光としての描写のみ。