アッシリアとバビロニア
絵図は Wikipedia から。上3枚は public domain、下2枚の写真はクリエイティブ・コモンズによる使用許諾。
ハンムラビ王が築いたバビロニア帝国の領域は、前回見た通り、マリ辺りまでとされる。ハンムラビ王ご自身は『バビロニア王』とは言わず「シュメールとアッカドの地の王」と名乗る事もあり、バビロニア=シュメール+アッカドと解するのが一般。
けれども序文を見ると、更に上流のトゥトゥル、ハルペ(アレッポ)まで行っている。
概ねメソポタミア南部をバビロニア、北部をアッシリアといったから、アッシリアまで侵蝕したことになる。シャムシ・アダド1世死去後に混乱したアッシリアを巡って争い、これを支配下に置いたのがハンムラビ王であったとか。
シャムシ・アダド1世在位中のアッシリアは強大で、ハンムラビ王はこれに同盟していた。シャムシ・アダド1世は非常に強力な王で、シュバト・エンリルを立てアッシュルから遷都したのもこの人。
その死去は周辺諸国の暦にも刻まれる程の事件であったらしい。
こうして見ると、ハンムラビ王のバビロニアは勢力を伸ばしたというより、強大な勢力を前にして何とか生き延びた感じ。
古アッシリアは勢力を盛り返せず滅びてしまうが、その後もアッシリアとバビロニアは興亡を繰り返し、最後に偉大な王が現れる。
アッシュル・バニパル王が『羊飼』として民を守るべく、獅子と戦う図は有名で、皆さん1度はご覧になった事であろう。そこで改めて、腰帯に何か挟んでいる点に御注目あれ。アレは筆記具だ。
別図にも同じように、腰の右にペンを挿し、常に書き記す用意をしている。対戦中にもこれを見せているのは、王の本分が書記にあるものと考えられた証であろう。
読み書きできる事を誇りとしたアッシュルバニパル王は、世界初の図書館を創り、粘土板文書を収集した。お陰で、私たちは遺された文書に親しむことができる。
どうやら彼に限らず歴代アッシリア王は、バビロニアを強く意識したらしく、その先代までは「シュメールとアッカドの王」を兼ねた。その価値観には、バビロニアを初めて統一した「シュメールとアッカドの王」の影が有ったと考えたら、穿ち過ぎだろうか。この称号自体、ウル第3王朝から引き継いだものらしいが。