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償ひの道、あるいはハンムラビの法典 Codex Hammurabi  作者: ハンムラヒ王/Leonard William King(英訳)/萩原 學(邦訳)
訳者緒言
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紹介と糾弾

誤解は正さねばならない。

『目には目を、歯には歯を』という復讐法が、ハンムラビ法典である。と、考えている貴方にこそ、本書を読んで頂きたい。ハンムラビ法典に、そんな文句は無いし、復讐など許してはいないし、全篇これ「量る」「償う」に尽きるのだから。


ハンムラビ法典英訳版を読んで、極めて印象的なのは、"pay" の多さである。というより、この「法典」は "pay" で成り立っている。業績に対して報酬を支払い、損害に対して補償を与え、罪業に対して処罰を報いる。その全てが "pay" すなわち『報い』である。殊に、損害を償わせる規定が多く、"pay" の大半が「償い」と訳せてしまうほどで、しかも「償い」の額を指定しているのは、「損害」を「量る」ことができるものと考えている証拠でもある。言い換えれば、ハンムラビ法典に於ける功罪は、その大小を量り得るものであり、その量に応じ報いる、或いは償うことにより、正義は回復されたこととなる。


「こんな昔にこんなものが」などとは言わないで頂きたい。それは人間性一般に対する侮辱である。いつの世も、人は人にできる限りのことをやってきた。「宇宙人が来て教えた」などと妄想するのは勝手だが、その「宇宙人」に地球人も含まれることを忘れてはならない。

だいたいマルクス主義者以下、進歩派には理解できないかもしれないが、人類は進歩成長などしていない。社会の大規模化複雑化に適応したに過ぎない。本当に人類が進歩しているなら、今頃はお釈迦様より賢い人物で地上が満ち溢れる筈だが、そんな人物は地上に1人も居ないのが現実ではないか。


さて、『目には目を、歯には歯を』との台詞が有名なのは、新約聖書におけるイエズスの教えにあるが故。


マタイによる福音書5章

38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。


イエズスが引用したこの掟は、旧約聖書のものであろう。


出エジプト記21章

22 もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。

23 しかし、ほかの害がある時は、命には命、

24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、

25 焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。


「これはあなたが彼らの前に示すべきおきてである。」として、神がモーセに指示した話の一部。とはいえ、ハンムラビ法典196~200条の影響下にあるのは見比べて明らかである。から、説教師はこれ幸いと、ハンムラビ法典に責任転嫁し、聖書をよく知らない人々を煙に巻くことであった。

ところが、ハンムラビ法典共々、楔形文字などイエズスの時代にはとっくに忘れられ、1902年に漸く掘り出されたのだから、真に受けると時系列も何もあったものではない。ハンムラビ法典をダシにして、「愛の宗教」などと基督教を喧伝したアホウ共は皆、その責を負うべきである。


本書が「復讐法」などと称せられた一因は、ローマ法学者による解釈及び翻訳の影響にあろう。ローマ法には lex talionis という概念があり、talis(同じ)ことを求める報復律だったのが「同害復讐法」と訳されてしまった。初めから「等価交換」「等量応酬」とでも訳しておけば誤解されずに済んだものを、ローマ法の先生方にとって「量」の問題は、さしたる関心を惹かなかったのか、「応報刑思想」などと呼ばれてしまうのは寒い。功績への報酬は、罪を罰するより安いものなのだろうか?


これが口語文ということは有り得ない。粘土板文書が開発されて久しい時代とはいえ、書いたことを忘れるようでは話にならず、実際には暗誦された筈。そのため書き物は韻文すなわち詩の言葉で綴られ、読むというより歌われるものだったに相違ない。

これについて戦前までは、せめて文章の格を保とうとする努力が見られたのに、口語の時代となってからは最早だらしないまでに垂れ流しスタイルが蔓延る惨状。といっても、詩文すら韻文であることを放棄して誰も疑問に思わない時代だから、法学者の先生方が韻文に親しまれないのも、まあどうしようもない話ではある。

一方で散文的な問題と思われてきたのか、近代以来のどの詩人も、この思想に対するより良い訳語を考えようとはしなかった。詩人というのは概して狭量なもの、とは判っていても同業者の無関心ぶりには嘆かざるを得ない。とか何とか言う前に、『ハンムラビ法典』邦訳の本が、今では書店に注文しても売っていない。

という次第で無謀にも、物を知らない三文詩人が自分なりに当たって砕けたのがこの翻訳という訳である。より良い訳語の提案があれば、何もお礼は出来ないけれど、感想欄にてお寄せ頂きたい。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 素晴らしいものを読ませていただきありがとうございます! ずっとモヤモヤしていた部分がすっきりしました!
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