06
疲れた。ふと、そんなことを思った。
「アイリーン、少し休め。キースを置いていく。好きに使え」
「兄上、少々俺に遠慮がなさ過ぎるな」
吐き出された溜め息は重く、深い疲労が滲んでいる。次いで聞こえた王弟殿下の溜め息の軽さが、陛下の心労を浮き彫りにした。
退室される陛下を見送る為に立ち上がったわたくしは、礼をとることで返事の代わりとさせていただいた。どうしてか声が出ない。お兄さまは陛下に付き添った。
残ったのはわたくしと、王弟殿下の二人。
「部屋まで送ろう」
差し出された手をとったのは、反射に近い。手を引かれるまま歩いて、気づいたら部屋に着いていて、誘導されるままソファーに座った。ふと室内を見渡して気づく。控えているはずの侍女がいない。隣に王弟殿下が腰を下ろしたことにも、気づくまでに時間がかかった。
未婚の男女が二人きりというのはよろしくない。扉も閉められて、密室だ。いけない。そう思うのに、声が出ない。……疲れた。どっと押し寄せる疲労感に、もう一歩も動けないと錯覚する。
「ふむ……改めて、キース・アレキサンドだ」
「お初にお目にかかります殿下。カサンドラ侯爵家が長女、アイリーン・カサンドラと申します」
まるで他人事。空っぽの体から勝手に言葉がこぼれ落ち、勝手に頭を下げた。
王弟殿下の前なのに。ちゃんとしなくちゃいけないのに。
今、意識を明瞭にしてしまったら、何かとんでもないことを口走ってしまいそうで。胸の奥からあふれそうになっている感情が、制御できなくなりそうで。
「あなたのおかげで、王家は崖っぷちではあるが踏み止まれた」
魔石の話を公表し、ポスカ伯爵家へ相応の処分を下せば、王家の負う傷は浅く済むでしょう。王弟殿下が復権なされば、一部の臣下にしか伝えていない陛下の病のことも公にできる。そうなれば、レオン殿下のことなど掻き消えるでしょう。……わたくしのことは、どうとでもなる。
「身に余るお言葉です殿下。わたくしがもっとしっかりしていれば、防げた事態でした」
わたくしがもっと、しっかり殿下の心を惹き寄せ、繋ぎ留めていれば。
謝罪するわたくしに、殿下はあっけらかんと言い放った。
「それは無理だろう」
返事を、し損ねた。
「たった一人の王太子。王の病。責は重く予断を許さない。余裕のない日々だったろう。みな、疲れていたんだ」
声は優しいのになぜでしょう。裂くような痛みがあった。
「疲弊した心ほど御し易いものはない」
避けられない事態だった、とそう言うのでしょうか。遅かれ早かれ心は離れてしまった、と。
「レオンは器こそ立派だがな、さらされ続けた緊張に耐えうる強さは持っていない。あなたという支えがあってこそ、あれは王足り得る男だったんだ」
その為に選んだカサンドラの姫君。そう言って頬に触れる手を、どうしてかわたくしは避けられない。
「無理を強いた。無為な火種を増やすと避けていたが、もっと早く戻ればよかった」
色濃い後悔の念、下がった眉尻が表す苦悩を、責めることなどできない。
王弟殿下がいてくだされば、陛下はあんなに苦しまずに済んだかもしれない。王妃さまはあんなにも泣かずに済んだかもしれない。でも王弟殿下がいたら、レオン殿下はもっともっと苦しんだ。わたくしの強さに打ちのめされるよりずっと以前に、心が壊れていたかもしれない。
どちらを選ぶことも、わたくしにはできない。
「戻った以上は務めを果たそう。あなたにも、必ず安らぎを提供すると約束する」
王弟殿下の帰還で、陛下は離宮におこもりになるでしょう。王妃さまも付き添うことになるはずだ。レオン殿下は廃嫡、王家の責を負う必要はなくなった。
――ああ、そうか。
わたくしだけが、変わらず戦場に立ち続けねばならない。殿下はそれを、憂いてくださっているのか。
「わたくしのことなど、どうでも良いのです殿下。わたくしは、大丈夫ですわ」
心身共に傷ついた陛下。涙を流すたび心を裂かれた王妃さま。罪を背負い生きるレオン殿下。みなに比べればわたくしは、無傷だ。傷ついた愛は国へ向けてしまえばいい。王太子妃という立場も、次期王妃という将来も変わらずここにある。ほら、無傷だ。無傷と変わらない。隣に立つ殿方が、わたくしが支えるべき旦那さまが、王弟殿下になるだけ。
大丈夫、わたくしは大丈夫。
今は少し疲れているだけ。この痛む胸だって、すぐに良くなる。だって、石が増幅させたものにはきっと、この痛みだって含まれているはずだもの。でなければ、無傷であるはずのわたくしの心がこんなにも痛いはずがない。痛くて痛くて、気を抜いたら泣いてしまう。
ご心配には及びません、と辛うじて薄く笑うわたくしを見る殿下の顔が一瞬、ひどく傷ついたようにしかめられた。けれどすぐに様相を変え、冷笑へと塗り替わる。
そうか、と頷く声は酷く冷たい。
急な変化に、わたくしは迷子にでもなったような言いようのない不安に駆られた。
「それにしても、随分とあっさり頷いたな」
何の話か。わかるのはそれだけ。どうして急に話題を変えてしまわれたのか、それはわからなかった。
「こ、国母は必要ですもの」
王妃さまの名代などいるはずもない。王だけがいても、後宮が立ち行かなくては意味がない。
「国の奴隷か?」
「愛を、国へ捧げるだけですわ」
国を想う気持ちだって愛だ。殿下に向けていたものを、国へ向けるだけ。
資質はこの十年で磨いてきた。務めあげてみせる。隣に立つ相手が違うだけ。大丈夫、わたくしはきっと大丈夫。
なるほど、と呟く殿下の声はいよいよ冷え切って、獣の勘が警鐘を鳴らす。聞いてはいけない。その先は――
「レオンでなくてもよかったわけだ」
「な、にを……」
脳が理解を拒む。その残酷な言葉を、心が拒絶する。
蓋をしたはずの心に、爪が立てられる。引っ掻くような痛みが走った。
――やめて、
「あなたのそれがすべて国への愛だと言うのなら、誰が王かは些事だろう?」
「……、」
そんなことない。殿下がよかった。わたくしは十年間ずっと恋をしていた、レオン殿下の愛が欲しかった。誰でもよかったなんてそんなこと、絶対にない。
殿下が治めるこの国の母となりたかったんだ。
国のお嫁さんになることではなく、殿下のお嫁さんになることがわたくしの夢だったのに。
きゅう、と締めつけられた胸が痛くて、涙が出た。
「殿下が、レオンさまがよかったのです……レオンさまが好きだったのです」
ずっと殿下の為に頑張ってきたのに。王妃の席が欲しいだけの女に、殿下の愛はあっさり奪われてしまった。あんな小さな石なんかに、容易く解かれてしまった。それが哀しくて、悲しくて。
そうだ、わたくしは怒っていたんじゃない。寂しかったんだ。
わたくしのことを愛していると言ったその口で、別の女性への愛を告げる殿下が嫌だった。明確な言葉を避けて、わたくしに言わせる殿下が嫌だった。わたくしのことはもう愛してくれない、わたくし以外の女性と結婚したい。自分で気づいて自分で言葉にしなくてはいけないことが痛くて。別れを告げてももらえないことが寂しかった。
わたくしがもっと弱ければ、守りたくなるような儚さがあれば。叶わない理想ばかりが浮かぶ。弱ければそもそも選ばれなかった。守りたくなるような儚さがあれば、侮られるばかりで役に立てなかった。殿下の隣で国を支える為には、強く在る以外になかった。
それでも、強さが殿下の愛を遠ざけた。一度はその強さで愛されたわたくしは、強さのせいで捨てられたのだ。
「すまない、いじめてしまったな」
頭を撫でてくださる手が優しくて、殿下とは違う、大きくて筋張った硬い手があんまりにも優しくて。わたくしは涙の止め方を忘れてしまった。
◇
薔薇のような娘だと、兄上の手紙にはそう書いてあった。シャルナ義姉上一筋で他が目に入らない兄上にそこまで言わせるのだからさぞ美しい娘なのだろうと高まっていた期待は、なるほど確かに大きく上回る形で裏切られた。けれどアイリーンという薔薇は、その棘であまりに自身を傷つけ過ぎている。
十年付き合った婚約者に衆人環視の中で別の女を愛していると告げられた娘が、王の御前とはいえ笑顔で大丈夫、などと。異質だ。不気味と言ってもいい。
仮面をつけ替えるように表情をつくり、同時に感情を切り捨てる。平時であれば、素の感情をむやみに見せることに眉をひそめる者もいよう。けれどあの時、あの場の誰がそれを責めようか。泣いてよかったはずだ。傷ついてよかったはずだ。何があれほどまで彼女から感情を削ぎ落したのか。
王都に戻ることも、王位を継ぐことも、一回り差のある妃を迎えることも、すべて納得して受け入れたことだったが。……初見の印象だけで言えば、愛せる自信は全くなかった。愛させてくれないだろう、とも思った。
――まったく、
赤く腫れた目元にそっと触れる。疲れてコテンと眠ってしまうほど、泣かせてしまった。
『レオンでなくてもよかったわけだ』
鉄壁の仮面を引き剥がした言葉は、心臓を刺すつもりで吐いた。これで泣かなければきっと、今後、アイリーンが俺に愛を捧げさせてくれることはない。
『殿下が、レオンさまがよかったのです……レオンさまが好きだったのです』
はらはらと静かにあふれた涙は、瞬きのたびにいっそう流れた。
これまでの人生で泣く女を慰めたことは一度や二度ではないけれど、今日ほど必死になったことはない。泣いてくれたことに心底安堵し、泣かせたことに打ちのめされた。
『こ、こんなに泣いてしまって……頑張って我慢していたわたくしがバカみたいではありませんか』
『うん、すまない』
手のひらを返すようとは今の俺のことを言うのだろう。自覚はあったが、気づけばコロッとひっくり返っていた気持ちには苦笑するしかない。
『もうずっと、ずっと痛かったのです……』
『うん、すまない』
嗚咽の合間に漏れる嘆きさえ、夢の中にあるようで。
どこまで覚えていてくれるだろう、なんて幼子のような心配をしながら、おそるおそる背に手を回して撫でた。
『俺はレオンより頑丈だ。あなたが寄りかかっても受け止めてやれる』
『……そんなの、知りませんわ』
迷うような言葉は曖昧でよくわからなかったから、俺は都合よく解釈することにした。お利口で上品なレオンと違って、俺はその辺かなり図太い自覚がある。
『勝手に甘やかすさ。奥方をいかに甘やかすか、夫の腕の見せ所だろう』
強く在らねば、支えなければ。それしか頭になかったというのなら、こちらから引き寄せてしまえばいいだけだ。
『まだ、奥方ではありませんわ』
いじけたように俺の胸に額を擦りつけた。なかなかどうして、堪らない仕草をしてくれる。泣かせてすぐという状況でなければ危なかった。
『その為の努力は惜しまんよ』
ぴくり、と肩が跳ねた。涙に濡れた双眸を丸くして、アイリーンが俺を見る。目端から一筋、涙が滑り落ちた。
俺の何がアイリーンの琴線に触れたのか。今考えてもさっぱりわからない。
『俺は、あなたの心がほしい』
わからなかったから、何も考えず本心を差し出した。
――まったく、これでは離してやれない。
『全部は、差し上げられないかもしれません』
ぽつりぽつりと、言葉を選ぶアイリーンの眸は揺れていた。
『でも、』
髪を一房すくいあげ口付ける。これ以上は寝顔に穴が開いてしまう。
惜しむ気持ちをぐっと抑え込んで、部屋を出た。
『その為の努力を、したいと思います……』
あの表情とあの言葉に、くらり、とこない男など、この世のどこにもいはしないだろう。とんだ殺し文句もあったものだ。
背筋を駆けた心地いい痺れにゆるむ口元を、そっと手で覆い隠した。
◇
寝所へ続く回廊を塞ぐように立っていたのは、謁見の間にいた猟犬の片割れだった。
メレディス・カサンドラ。若くして次期宰相の地位を確立させた秀才で、アイリーンの実兄だと聞いている。
眼差しは静かに凪いでいるが、こちらを睨め据えることを少しも躊躇っていない。歴代最高と名高い猟犬。口角は自然と持ち上がった。
「お前の妹、泣かせてしまったよ」
燃え上がるような殺意と憤怒の気配はしかし、瞬きの間に鳴りを潜めた。優秀だが妹のこととなると途端にポンコツになる、という兄上の情報は真らしい。
「カサンドラ家の女の涙は、戦場へ向かう男を生きて帰す為の未練だと言われております。それをいじめて泣かせてしまうとは、アイリーンも悪い男につかまったものです」
見事なお手並みですね、と。声に宿す棘を隠しもしない。相当、腹に据えかねたようだ。
にっこり笑んでいるのは顔だけで、ぶっ殺すぞてめぇ、という声が聞こえるのはきっと錯覚ではないだろう。
今後、跪き仕えることになる男を相手に容赦がない。
「諦めろ。もう離してやる気はないんだ」
否は許さない。
「……さようですか」
メレディスは頷かなかったが、拒絶もしなかった。拗ねたようにぷいっとそっぽを向く様など、まるで子どものようではないか。
「今後も泣かせるぞ、俺は。一人くらいそういう相手がいなくては、あれはいつ軍神に攫われるやもしれん」
俺に言わせれば児戯のような愛だ。レオンも、アイリーンも、恋を知るより先に体のほうを教えられたのだろうことは容易に想像がつく。王族とその婚約者だ、珍しくもない。けれど今回は、その過程を知らぬがばかりにそろって足をすくわれた。
歪な愛の形、不完全な心の在り方。かの荒ぶる神には、さぞ魅力的に見えることだろう。
「軍神なぞに妹をくれてやる気はありませんが、殿下にお任せするのも賛成しません」
「言ったろ、諦めろ。俺がもらうと決めたんだ」
誰が軍神にくれてやるものか。寄越せと言い出したら首をもぐ。
「油断して噛みつかれないとよろしいのですが。あの子は少々、過激ですから」
「激しい女も好みだがな」
遠慮ない殺気が全身に突き刺さった。
「……まあ、俺はこれでも一途な男だ。心配性なお兄ちゃんの為に、約束くらいはしてやるよ」
不穏に細められた双眸を真っ向から受ける。引く気配のない殺気には、呆れて思わず肩をすくめてしまった。まあ、いいさ。ご褒美代わりに優しくしてやる。
妹のこととなると途端にバカになるこの男が、今回の一件で頑張らなかったわけがない。メレディスが真っ先に領地へ戻り父親を説得したからこそ、アイリーンの犠牲だけで済んだのだ。でなければ今頃、宮廷内にカサンドラ姓の人間は一人もいなくなっていたことだろう。一人ひとりが文字通り、宮廷の機能不全を招きかねない事態を引き起こしてから一斉に出仕拒否していてもおかしくなかった。レオンの首が胴と繋がっているのだって、メレディスが妹の為に怒りを呑み込んだからだ。この男は、妹の為なら王太子の首くらい簡単に刎ね飛ばす。
「信じますよ、殿下」
メレディスは諦めたのか瞑目し、そしてやはり拗ねた子どものように頷いた。
渋々という雰囲気をひしひしと感じながら、男一人が通るには狭いが辛うじて通路を開いてくれたメレディスの横を通り過ぎる。すれ違いざま、絶妙に持ち上がった爪先をちゃんと躱せた自分を絶賛してやる。王太子の足を引っかけて転がそうとする臣下など聞いたことないぞ。……舌打ちは幻聴ではなくばっちり聞こえた。
レオンの奴、本当によく生きていられたものだ。感心するやら呆れるやら。これでは猟犬ではなく狂犬ではないか。
にやけそうになる口元を、意識して引き締める。気取られれば、この場で殺し合いに発展しかねない。
――泣き顔に惚れた、とは口が裂けても言えないな。
うっかりこぼれそうになった言葉は、腹の底に沈めた。