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【電子書籍化】愛の為ならしかたない  作者: かたつむり3号
第一章 愛の為ならしかたない
8/40

05


 陛下の体の状態を聞かされたのは、まだお母さまが健在だった頃だ。

 国内最高位の医師が匙を投げたその病は、進行を遅らせることはできても完治は不可能とのことだった。陛下はこれから細く長く、針の穴に糸を通すような生活を強いられる。


「レオンの成人までは保たせてみせる。だが、それ以降はどう転がるかわからぬ」


 今この国に、王位継承権を有する方は殿下をおいて他にない。殿下の背負うものがまた一つ、重くなった。殿下はもう、一度の過ちもわずかな隙も許されない。完璧であり続ける生活を強いられるのだ。

 頼むぞ、と名を呼ばれた時に一度だけ、殿下が肩を震わせた。けれど目に見える形での動揺はそれだけだった。

 言葉を選ぶような途切れ途切れの会話は殿下にしては珍しいことだったけれど、話が終わるその時まで、殿下は落ち着いているように見えた。

 殿下に次いで、わたくしにも同じ言葉が向けられた。情けなくも声が出なかったわたくしは、深く頭を下げることで返事の代わりとするのが精一杯だった。


 どうしよう、どうしよう。


 頭の中は混乱していた。陛下の体の状態を何度も反芻する。不安で、心細くて。殿下のことが心配で、心配で。乱れる思考は継ぎ接ぎになってまるでまとまらない。

 どうやって部屋に戻ったのか、いつの間に夜になったのか、そんなこともわからないくらい動揺していた。

 控えめなノックに気づけたのはだから、ちょっとした奇跡と言っていい。

 夜半に部屋を訪ねてきたのは殿下で、その顔は文字通り真っ青だった。慌てて中へ招き入れ、人払いを済ませる。

 混乱が吹き飛び、乱れた思考が瞬く間に整っていく。


「レオンさま、まずは座って落ち着いてくださいませ」


 扉のそばで、招き入れられた状態のまま立ち尽くす殿下の手を引いてソファーに座らせる。触れていたのはわずかな時間だったけれど、殿下の手は氷のように冷え切っていた。

 体だけでも温めていただこうと差し出した肌かけに目を向ける余裕もないのか、殿下はうつむいたまま動かない。しかたなくソファーの背にかけ、殿下の隣に腰を下ろす。


「今夜は寝つけなくて困っていましたの。会いに来てくださって嬉しいわ」


 わざと明るい声を出す。膝の上で握りこまれた手にそっと重ねると、殿下はようやく顔を上げてくださった。か細い声が、確かめるようにわたくしの名を呼ぶ。はい、と短く返事をすると、また呼ばれる。何度か繰り返していると、それは突然きた。


「アイリーン……!」


 ひときわ強く名を呼ばれ、今度は返事の前に視界が揺れた。

 伝わる体温に、抱きしめられたのだと気づいた。殿下の肩が震えている。そっと背に腕を回し、子どもをあやす要領で軽く叩く。


「私は強くない。必死で誤魔化しているだけで、本当は弱虫で甘ったれなんだ」


 殿下はわたくしと出会う以前からずっと、自分だけを頼みに一人で戦ってこられた。王太子らしい振る舞いを、次期国王にふさわしく見えるように。その姿を誰もが立派だともてはやす。そのたびに背に圧し掛かる責が重くなるのだと、話してくださったのはいつだったでしょう。


「降りかかる重圧に潰されてしまう」


 声に涙が混じった。周囲の評価が殿下を追い詰める。周囲が思い描く理想の為に、殿下は心をすり減らして、それでも笑顔でいることをやめられない。氷の微笑の裏にある本心を隠し、決して悟らせない仮面。殿下はもう、その仮面を手放せない。


「そばにいてくれ、アイリーン」

「もちろんですわ、殿下。わたくしがいつでも隣におります」


 いつでも支えになる。殿下がわたくしを必要としてくださるのならばいつだって。


「君がいれば頑張れる。大好きな君の為なら、私はいくらだってかっこつけていられるんだ」

「さすがはわたくしの王子さま」


 傀儡ではなく、自分の意志で国を背負うとお決めになった殿下。人形のような冷たさは姿を消し、内にある感情を顔に彩ることができるようになられた。役割ではなく一個の人間として生きる殿下は、出会った頃とは比べ物にならないほど素敵な紳士に成長された。誰よりも聡明で、誰よりも優しい、わたくしのたった一人の王子さま。


「情けない王子さまはこれで最後にするから」


 すすり泣くような声に、わたくしは意識して口角を持ち上げる。


「あら、もう甘えてくださらないの? わたくしはこんなにも嬉しいのに」


 体が離れ、ぽかん、とした殿下と視線が交わる。涙を引っ込めるだけの効果はあったようでホッとした。せっかくだから、可愛い子ぶって笑って見せる。


「まったく君には敵わない」


 殿下の表情に笑みが混じった。


「アイリーン、君のそういうところが好きだよ」

「わたくしはレオンさまの未来の奥さんですもの」


 殿下の代わりに泣いたりしない。そばにいて、背を撫でて慰めて、そして笑う。殿下がつられて笑ってしまうような、そんな笑顔を浮かべるのがわたくしの役目だ。


「ありがとう、アイリーン」


 だってわたくしが泣いてしまったら、殿下はきっともう泣けない。わたくしの涙を拭って、慰めようとなさるでしょう。優しい王子さまは、簡単に自分を後回しにできてしまうから。だからわたくしは、殿下の代わりに泣いたりしない。


「さあ、わたくしの未来の旦那さま。少しはお休みになられませんと、明日が辛いですわよ」

「そうだね」


 おやすみ、とわたくしの頬に口付ける殿下からはもう、涙の気配はしない。


「おやすみなさいませ」


 ……よかった。

 不安に沈む心を差し出してくださった殿下に安堵する。ようやく眠気を覚えた自分にも。

 遠のく殿下の背を見送って、わたくしはそっと欠伸を噛み殺した。


    ◇


 砂糖菓子のような思い出が溶けて、わたくしの胸を焼く。痛い。もうずっと、わたくしの胸は痛みばかりが支配する。


 イザベル・ポスカ伯爵令嬢。

 可愛らしい顔立ちと愛嬌のある仕草、貴族令嬢らしくないころころと変わる表情と、人の興味を引く材料は十分にあった。殿方に好かれる要素を備えていることは否定しない。事実、彼女は好かれていた。けれどあまりに好かれ過ぎていた。


 婚約者一筋であったはずの侯爵家次男が、ともすれば欠点になりかねないほど真面目で浮いた話の一つもなかったはずの公爵家三男が、新婚であったはずの騎士が。イザベル嬢と接触したそのあとに、必ず失敗した。

 婚約者の名を呼ぶはずの場面で、なぜかイザベル嬢の名を呼んでしまう。書類に記名する際、なぜかイザベル嬢の名前を書いてしまう。奥方へ贈る花束に、なぜかイザベル嬢が好きだと言っていた花を添えてしまう。奥方が苦手だと知ってから、一度も贈ったことなどなかったのに。


 交わした会話は短い時間で、人の目がある場でしか接していない。イザベル嬢との関係を疑う要素など、欠片もありはしないはずなのだ。

 監視をつけて、潔白の証明を集めている間にも、どうしてか彼女に惑わされる殿方は後を絶たない。ただ、話しているだけなのに。

 イザベル嬢の目的など、本当にどうでもよかった。野心を抱くことは罪ではない。彼女の実家は宝石商だ。より高位の貴族と繋がりを結び家の繁栄に貢献しようというのであれば、立派な心掛けだと褒めもしよう。

 母親が流行り病に罹ったことで、まとまりかけていた縁談が流れたという話も聞いていた。新たな縁談を結ぶ為、顔を売ることも罪ではない。同性からの評判が地に落ち、社交界で眉をひそめられるようになっても、彼女自身が招いた結果だ。しかたない。


 目を瞑っていられなくなったのは、無関心で済ませられなくなったのは。監視から上がってくる報告の中で展開されるやり取りに、殿下の話題が交ざるようになったから。

 接触する殿方は無作為に選ばれていた。だから監視をつけるだけに留めていたのに。不自然な現象を解明する。その為の調査でしかなかったのに。最近ではより高位の、よりレオン殿下に近しい殿方に的を絞っている傾向にあった。看過できない事態だった。


 調査の手をポスカ伯爵家まで伸ばしたのはそれからすぐだ。王妃さまへ報告して、陛下の許可を得て。調べて、調べて調べて調べ尽くして。……出てきた不穏分子は、たった一つ。イザベル嬢の母親の心を慰め、死後は彼女のお守りとなった石。その石だけが、清廉潔白なポスカ伯爵家の不純物だった。北を中心に活動する商人から、ポスカ伯爵自らがわざわざ買いつけた高価な石。

 碧い石。まさか小さな石に人の心が左右されるなど想像もできず。


 そうこうしているうちに、殿下の心が離れた。

 他の殿方と同じ。イザベル嬢と接触したあとから、殿下はわたくしの名を呼ぶ前にわずかな間を空けるようになった。視線は一度わたくしの口元を向いてからでしか交わらない。贈られてくる花束には、これまで見たこともない色が交じる。

 すれ違った距離は縮まらず、結び目が一つ解けるたびに、イザベル嬢と殿下の距離が埋まっていくのを肌で感じた。

 距離感を嗜めるわたくしへ向ける殿下の笑みが、つくりこまれた氷の微笑の面影を見せた瞬間、わたくしの猟犬の血はいとも容易く殿下を見限った。嫌だ、と泣き叫ぶ感情などおくびにも出さず。

 不敬にも王太子殿下に粉をかけた娘、それに絆された愚かな殿下。この国は殿下の心が揺らいだ時から、窮地に立たされていた。


 陛下は王弟殿下を呼び戻すことをお決めになり、王妃さまはさめざめと泣きながらもギリギリまで醜聞が外へ漏れないように努めてくださった。わたくしは迷わずお兄さまを巻き込んで、お父さまと、そしてカサンドラ家を抑え込んでもらった。

 イザベル嬢を妾妃として迎え入れる準備と並行して、万が一にも殿下が婚約解消と言い出した場合の対策に駆け回る日々。殿下だけが知らなかった。

 元の関係に戻す為の話し合いは上滑るばかりで時間だけが溶けていく。寝る間も惜しんだ。日に日に濃くなる目の下の隈を一生懸命お化粧で隠して。でもそんなことにも殿下はもう気づいてくださらなくて。


 心ばかりが泣いていた。


 (どく)に侵された殿下はもう、国の王にはなり得ないから。せめて傀儡として、国の奴隷になっていただく。次代の王妃さえ予定通りに事を為せば、王は人形でも構わない。

 残酷だが、必要なことだった。この国には後がない。

 今日は殿下にとって、最後のチャンスだったのだ。イザベル嬢を妾妃に望んだら、予定通り離宮におこもりいただく。もし婚約解消の申し出であれば、切り捨てる。


 大丈夫だと信じたかった。聡明な殿下のことだから、最後にはきっと正しい選択をされるのだと。お優しい殿下がわたくしを見捨てるはずがないと。そう信じていたかった。たとえお兄さまに楽観的だと叱られようと、大好きな殿下の大好きなところを信じていたかった。


「平和に喰われたな、兄上」

「言うな」


 殿下は優秀過ぎた。予備など不要だと、陛下の口を塞ぐほどに。誰が予想できたでしょう、殿下が愛で狂うなど。


「アイリーン」


 レオン殿下が次期国王でないのなら、次はキース王弟殿下の番。そしてその場合、わたくしは――


「これはレオンに勝る。愛で腐るような歳でもない」


 ――あぁ、やはりそうなるのね。


「そなたの意思に委ねる」


 陛下の体はきっともう何年も保たない。わたくしを王太子妃に据える以外、選択肢などありはしない。それでも、そんな現実を無視してまでわたくしに選択肢を与えようとしてくださる王だから、わたくしは迷わずいられる。


「愛する祖国の為とあれば、喜んで」


 優しい、優しい陛下が少なからず、わたくしの迷いのなさで心を痛めるとわかっていても、わたくしは他の回答など持っていない。何度、同じ状況に放り込まれてもきっと、わたくしは同じ選択をする。


「……そうか」


 静かに頷いた陛下の声は、泣き出す前の子どものようだった。

 

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「愛する祖国の為とあれば、喜んで」 かっこいい…… まさしく貴族女性ですな
[一言] 03で初めて名前を呼んだって書いてあったけど、5年前に「レオン」と呼んでるのは…??
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