04
イザベル嬢のすすり泣く声だけが部屋に流れる。殿下は慰める余裕もないのでしょう。隣り合って座っていた二人の間には、すっかり距離ができてしまっている。
わたくし達だけでの話し合いは、この辺でお終いにして構わないでしょう。続きは――
「アイリーン!」
切りつけるような声が沈黙を裂いた。ノックもなく飛び込んできたのは、陛下の元へ戻ったはずのお兄さまだった。どうして一人なのでしょう。しかし問う隙はなく、駆け寄ってきたお兄さまは項垂れる殿下を見た途端、頭を抱えて崩れ落ちた。
「あぁ、遅かった……」
場の空気も含め、すべて察してしまったらしい。さすがはわたくしのお兄さま。
「アイリーン、何を言ってしまったんだい? まさか我が家の基準で言葉を選んでいないだろうね?」
カサンドラ家が抱える私兵の訓練場で、情けなくもわたくしを相手に地面に転がった男達を叱り飛ばす際の言葉を選んだか、ということであれば、否だ。
「もちろんですわ、お兄さま。わたくしはただ、愛についてお話ししただけです。ね? 殿下」
愛、という部分でお兄さまの纏う空気が一変した。地の底から這い上がってくる氷の殺意。凡人の命であれば視線だけで奪ってしまえると恐れられるお兄さまの本気の怒りを感じ取り、慣れているはずのわたくしの肌も粟立った。
殿下が怯えたように肩を震わせる。
「最も選んではいけない言い訳を選択されましたね、殿下」
ここで言い訳と切り捨ててしまうとは、お兄さまったらよほど腹に据えかねたらしい。
お兄さまが塗り替えてしまった空気をどうすべきか。わたくしが悩むより先に、お兄さまが開け放った扉を閉める音がした。
「話は済んだか」
ただでさえ冷え切っていた部屋の空気が凍りついた。たった一言で、爛れるような緊張が場を支配する。声の主を確認する必要はない。跪き礼を示す。いよいよ国王陛下の番だ。
これで本当に、すべてが終わる。
◇
人数が増えたことで、わたくし達は部屋を移動した。
場所は謁見の間。ずらりと並ぶ近衛に怯んだのか、イザベル嬢はすっかり大人しくなった。
近衛はみな、顔の前に布を垂らしている。ここでの出来事は他言しないという誓約だ。何も見ていないし、何も語らない。近衛の口を縫うほどの話が、今から語られる。その事実に、殿下の顔からは色が抜け落ちたよう。わたくしとお兄さまは、イザベル嬢を挟むように位置取り跪く。
「さて――」
水を打ったように静まり返った場に、陛下の声が響いた。まず名を呼ばれたのは、殿下だった。
「理由だけでも聞いておこうか」
その声には隠しようのない苦渋が滲んでいる。事の顛末も聞かず、事実確認もしない。陛下はすべてをご承知で、そのうえで敢えて殿下の気持ちを聞こうとなさっているのだ。
親としての、最後の情なのかもしれない。
しばしの沈黙のあと、殿下は顔を伏せたまま、ぽつりぽつりと言葉を選んだ。
「人に、なれた気がしたのです。王太子ではなく、レオンになれたと思いました」
殿下の凪いだ声にはもう、何の感情も滲んでいない。透明なその声を受けて、陛下の眉間のしわが深くなる。
「アイリーンではならなかったと?」
……陛下、それはあまりに残酷な問いです。声には出さず、痛む胸にそっと手をやる。
「共に歩み生きてくれる。アイリーンは王太子として唯一の安息地でした。けれど彼女は一人でも強いのです陛下。守られるばかりの不甲斐なさも、私が守らずとも損なわれない気高さへ募らせる妬心も……疲れたのです」
足元が、揺らいだ気がした。
強くあらねば立っていられなかった。強くあろうと、頑張ったんだ。一番重いものは殿下が背負ってくださる。ならばわたくしは、殿下の後顧の憂いを断つくらいできなければ公平ではない。生半可な強さではいられなかった。
それが結果として、今の惨めなわたくしになるなんて。
淑女に求められる貞淑さと気品、女に求められる儚さと可憐さ。王家の女に求められるのはそれ以上の強かさや教養だ。それらすべてで殿下を支えるのが、わたくしの役目だと信じていた。
殿下の背負うものに、わたくしが含まれてはいけないと思っていた。守ってあげなくても立っていてくれる。そういう存在になろうと努めてきた。殿下がお疲れの際、遠慮なく寄りかかっていただけるように。
――なのに、
守ってあげたい、という一点を殿下に抱いていただけなかったが為に、わたくしは愛を失った。
「その強さに助けられておったのではなかったのか」
陛下の声に棘が混じる。怒りはわたくしの為だと、頭ではわかっていても耳を塞ぎたくて堪らない。後回しにした心が叫び出そうと千切れんばかりに暴れる。
――やめて、もうやめて。
「愛していました、心から。けれど私が愛するには、彼女はあまりに孤独なのです」
すん、と心が黙った。抱えきれない感情の濁流が、遂にわたくしの許容範囲を超えたのだとわかった。じわじわと芯の部分が凍えていく。
「アイリーン、」
躊躇うような陛下の声に呼ばれ、反射的に顔を上げる。けれどきっと、顔には何の表情も浮かんでいないことでしょう。
孤独、とは。わたくしがかつての殿下に抱いた感想であったはずだ。淡々と、黙々と。王太子としての役割を演じる、寂しい在り方。周囲からは惜しみなく称賛され、将来への期待を一身に背負いながらも、誰にも心を許せない王子さま。その在り方をして孤独、とわたくしは評したはずだった。
それがまさか、自らに降り注ぐことになろうとは。
「すまぬ……」
陛下の言葉にハッとする。呆けている場合じゃない。
焦燥感に胸を焼かれ、冷えた心がわずかに溶ける。
「わ、わたくしは大丈夫ですわ、陛下」
声が震えた。陛下の顔が悲痛に歪む。
――笑え、笑え……!
がむしゃらに口角を持ち上げる。笑みの形を作るのは得意だもの。大丈夫、ちゃんとできる。
「陛下がこんなにも心を痛めてくださいますもの。陛下にこれだけ心を割いていただいては、わたくしの夫なのに、って王妃さまに叱られてしまいますわ」
ぎゅう、と胸が締まった。
……ああ、こんなところが。わたくしのこういうところが、殿下を疲れさせてしまったのかもしれない、とどこか他人事のように考える。悲しむ素振りでも見せれば、何かが違ったのでしょうか。
――不意に、場にそぐわない快活な声が響いた。
「あっはっは! 兄上は面白いご令嬢をお迎えになったな」
呵々大笑する声は、場の空気を一変させた。
「笑い事ではない」
苦い声で噛みしめるように言葉を吐き出す陛下の視線に誘われて、わたくしもそちらを見る。
キース・アレキサンド王弟殿下。
陛下の歳の離れた弟君。跡目争いを避ける為、早々に王位継承権を放棄し、今は北の鉱山で鉱石の研究に没頭していると聞く。お会いするのは初めてだ。
髪は短く刈られた日に透ける金糸、眸の深い青は海を思わせる。肌は日に焼け、太陽の匂いを感じ取れるよう。背の高い殿下より頭一つ分は高い位置に顔がある。浮かべている表情は王家の人間とは縁遠い悪戯っ子のような様相だけれど、その眼光の鋭さは陛下との血の繋がりを否応なく感じさせる。
王弟殿下は玉座のそばまで上がり、さっとわたくし達を見渡した。
「キース・アレキサンドだ」
簡潔な挨拶の間も視線はわたくし達を射抜き、そしてイザベル嬢を見て止まった。
「ふむ……それが問題の石か」
王弟殿下が指差したのはイザベル嬢の胸元、そこで輝く碧いブローチだった。困惑の声を漏らしたのは、イザベル嬢か、殿下か。知るより先に、王弟殿下が続けた。
「それは、お父上からの贈り物かな?」
「は、はい……!」
突然の問いに驚いたのでしょう、イザベル嬢の声は上擦っていた。殿下も混乱を隠す余裕がないようで瞠目している。
王弟殿下はその眼光をますます尖らせ、陛下のほうに向き直った。
「兄上、これは思ったよりも大事だな」
大事、という部分に総毛立つ。そっと、身じろいだ風を装って体の軸を傾ける。お兄さまも察してか、イザベル嬢のほうへにじり寄った。
「……どう見る」
王弟殿下は陛下の問いには答えなかった。意味深な視線がわたくしとお兄さまを撫でるように通り過ぎる。
「拘束しろ」
命令は簡潔。お兄さまとは目配せの必要もない。お兄さまはイザベル嬢の腕を後ろ手に拘束、わたくしは迷わず陛下を庇う位置に躍り出た。
「はははっ! 躾の行き届いたいい猟犬だな、兄上」
「少しは口を慎まんか、馬鹿者が」
響いた悲鳴は、イザベル嬢のものだった。何で、なぜ。聞こえるのはそんな言葉ばかり。
構わずブローチをむしり取ったお兄さまは、迷わずわたくしへ放った。とっさに浮かんだ拒絶感を理解するより先に、ブローチはわたくしの手に届いてしまった。
……触れさせても構わないのでしょうか。迷いはあるけれど、わたくしでは処理に困る。振り返り一歩、大きめに下がって王弟殿下に差し出す。
「ふむ、いいな」
ぽつりと呟かれた言葉にわたくしが顔を上げるより早く、陛下が大袈裟な咳払いで遮った。
王弟殿下の指が、事も無げにブローチの表面を撫でる。
「これはな、魔石だよ」
聞き慣れない言葉だった。陛下もご存じではなかったのでしょう。険しい表情に、わずかだけれど動揺が混じる。
魔石。言葉の意味も、どういうものであるのかもわかる。けれどそれだけだ。現実に存在しているという感覚は、どうしたって得られなかった。
「魔石……? お父さまはそんなこと一言も、」
動揺をそのまま感情任せに吐いたイザベル嬢の声を、お兄さまが腕を締め上げて潰した。
「古の遺物だよ。お伽噺の産物さ」
かつて、まだこの地にドラゴンや精霊が在った頃、魔法が現実だった時代。魔法の源を含む石が、人々の生活に根づいていた。夜を照らす灯りにも、竈の火にも、実りを育む水にも用いられてきた。魔石は生活の一部だったと聞く。歴史の教本で学ぶしかない、わたくし達には理解の及びようがない過去。
「ポスカ伯爵家は宝石商の家系だったか。にしてもよく手に入ったものだ。兄上、法で裁くにはちと厳しいぞ」
「構わん。法がなければ敷けば良い」
びくり、とイザベル嬢が体を揺らした。無理もない。事の重大さを知らしめるには過剰ともいえる。抱く恐怖はわたくしに罪を説かれた時の比ではないでしょう。
魔石はお伽噺で語られるのがせいぜいな、いうなれば未知の存在だ。既存の法では扱えない。新たな法を定めてでも裁くべき罪が今、わたくしの手のひらに載っている。
「して、それにはどのような力がある」
陛下の問いに、王弟殿下はあっさりブローチを手に取った。狼狽したのはむしろわたくしのほうだ。未知の物は、恐ろしい。
「碧い中に、わずかだが真紅が散っている。……精神系の効果を秘めたものだな。このサイズなら、近くにいる人間の感情を増幅させる程度のことはできるだろう」
どこまでも軽い口調で放られた言葉に息を呑んだのは、誰だったか。
感情を増幅させる。
足元にぽっかり穴が空いたような錯覚に襲われる。跪いている時でよかった。そうでなければきっと、立っていられなかった。
「なるほど、どうりで……」
お兄さまの呟きが鼓膜を揺らした。どうりで、わたくしが感情的になっていたわけだ、と。わたくしにだって推察できる。燃え上がるような怒りの正体は、これだった。こんな小さな石に、振り回された。
落胆と失望。
胸の奥が、じくり、と膿んだように痛んだ。
「旧時代の残滓に振り回されたか」
「そう言ってくれるなよ、兄上。俺の食い扶持だぞ」
話し込むお二人からそっと離れる。振り返った先で、イザベル嬢を拘束したままのお兄さまがこちらを見ていた。本当に珍しいことに、眉尻が下がっている。大丈夫か、と。言外に伝わるお兄さまの気持ちに、わたくしは何も返せない。
お兄さまの足元で、何で、と繰り返すイザベル嬢には、もう何の感情も浮かばない。
「アイリーン、」
かすれた声に呼ばれる。血の気が引いた顔でこちらを見る殿下は、いつの間にか立ち上がっていた。
「アイリーン、すまない……私は、私はなんてことを」
殿下、もう遅いのです。後悔も懺悔も何もかも、もう手遅れになってしまった。
鼻の奥がツンとする。
原因が何であれ、要因が何であれ、イザベル嬢の存在で揺らいだ感情があった事実は変わらない。傾いた心に偽りはない。殿下はイザベル嬢に惹かれた。なかったことには、もうできない。
「残念ですわ、レオンさま」
今日、初めて名前を呼んだ。きっともう、呼ぶことはない。
殿下の頬を涙が伝った。
わたくしとの婚約解消を申し出るまで思い詰めた愛の正体が、たとえ魔石のせいだったとして。それが何の慰めになるというのでしょう。裏切られ傷ついた陛下と王妃さまの心を、一体どれほど癒してくれるというのでしょう。踏み躙られたわたくしの心を修復するのに、一体どう役立つというのでしょう。
どこまでが真実の愛で、どこからが増幅された愛なのか。そんなの証明のしようがない。
今更、そう今更だ。わたくしへの愛を殿下が再認識したとして、わたくしはもう、それを告げられて信じることなどできない。どんなに言葉を尽くされても、心を捧げられても、どこかに必ず疑念が残る。殿下を手放しで信用することはできないし、殿下を頼ることなんてきっとできっこない。終わりだ。わたくし達の関係は、これでお終い。
「さて、」
仕切り直すように、陛下が一つ咳払いをこぼした。
崩れた姿勢を正し、跪いて礼を示す。
「レオン、王位継承権は剥奪する。代わりはキースが務める」
異論ないな、と詰める陛下の声には情の欠片も感じられない。王として、陛下は息子を諦めたのだ。
「ございません、陛下」
「離宮にて蟄居を命じる。頭を冷やせ、今後の話はそれからだ」
返事はか細く、殿下は付き添う近衛に支えられるように退室して行った。
陛下はその背が見えなくなるまで視線を逸らさなかった。扉が閉まる瞬間は目元を手で覆ってしまったけれど、次に顔を上げた時、陛下の目には鋭い光が戻っていた。
「ポスカ伯爵家は爵位剥奪、仔細は追って伝える。現領主一家は全員拘束、処遇が決定するまではひとまず投獄とする」
ポスカ伯爵が娘に贈ったブローチは、人の感情を増幅させる力を秘めた魔石だった。現代にまさかそんなものが存在しているなんて思いもしない。
入手経路も購入時期も割り出してある。病に臥せった妻の為、癒しになればと縋った品だという情報もつかんでいる。……慰めの為だけに留めておけばよかったのだ。人の手に負えない奇跡のような力を、国家を相手に振り翳していい道理などない。
王妃の座を狙い王太子の心を掻き乱し、王家に刃を突き立て、わたくしを貶める為になど、使うべきではなかった。妻を、母を失った悲しみの中で魔石が増幅させた感情の何かがいけなかったのかもしれない。それでも、罪は罪だ。然るべき罰が与えられる。
話は終わりだ、と告げる陛下の前に、イザベル嬢が息を吹き返したように這い出た。
「陛下! 陛下どうか、私は――」
「国王陛下の前です、控えなさい」
すぐにお兄さまが押さえ込むけれど、負けじと身をよじる往生際の悪さに、堪らず睨めつけ牙を剥く。
「下がれ!」
覇気に押されてか、ひぃっと悲鳴を上げたイザベル嬢をお兄さまが強引に立たせる。すぐさま駆け寄ってきた近衛が、身柄を預かり謁見の間から引きずり出した。
静けさの戻った空間で、誰からともなく深い溜め息が漏れる。
「アイリーン、心労をかけたな」
「滅相もないことでございます。申し訳ございません。すべてはわたくしの不徳の致すところでございます」
殿下の愛を繋ぎ留められなかった。魔石などという古の遺物に煽られ成り代わられるほど、わたくし達が築いた愛は脆かった。
愛を囁き合った時間もあった。本音を語り合った瞬間もあった。見据えた未来は同じであったはずだった。夢見た未来で、隣に立つのはお互いのはずだったのに。
言葉を探すような間は、わずかな時間だった。
「酷な話をする」
顔を上げる。陛下は隣に立つ王弟殿下のほうを顎でしゃくった。
「王太子の首はこれがいれば替えが利く。しかし王太子妃はそうもいかぬ」
続きは聞かずともわかった。
次期王妃に相応しい令嬢の選出。王妃教育の実施。どれだけ時間がかかるか想像もつかない。
陛下の体はきっと、それまで待てない。




